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変化

先日、23歳になりました。
これまで出会ってきた様々な人からお祝いの言葉やプレゼントをいただき、
とてもとても嬉しい日でした。
お祝いをくださった方、お世話になっている方、ありがとうございます。


「誕生日おめでとう」
のメッセージを送ること。
それは、誕生日を教えてくれるSNSに反応して、そのままおめでとうと打つだけで、手帳に一人一人の誕生日を書いて覚えてってしてた頃からすると、すごく簡単になったなあなんて思う。
人と関わることにたまにひどく疲れる私からすると、誕生日は縁を繋ぎ止めるための単純明快でありがたいポイントだなあなんて。自分の誕生日でこれを言うなんて、少しひねくれすぎだろうか。


けれど、ただの作業だって面倒でしないときはしないし、この人には伝えたい!と思う人には必ず伝えるし、片手間だってかけたい人にしかかけられないと思うし、誕生日をきっかけにしてこの縁を繋ぎ止めたいと思うその気持ちには愛情が少なからず宿っていることも知ってるつもりです。

「おめでとう」への感謝の気持ちは変わらず、そして私からの「おめでとう」にはいつだって出会えた感謝とこれからへの願いがのっています。
本当に載せるのかな、この文章…とてもやばい人と思われそう。



社会人になって初めての誕生日、いい機会なので色々な自分の変化を書いていこうと思います。



夜の空気は相変わらず大好き



まずは身体の変化

生きていくということは、自分や世界の変化と付き合っていくことなんだな、なんてことを実感するようになったのは、明らかに自分の身体が変わっていってるから。

押さえておくべき健康のポイントが増える増える。
今まで見向きもしなかった栄養ドリンクなるものが安心につながるほど。

例えば貧血
これまで血が足りないという現象に遭遇したことがなくて、瞼の裏が白くなってるのを見たときはこれが巷で噂の貧血か!なんて思ったものですが、まだなるタイミングとかを把握できていないのが面倒。
食生活変えないとなあと思ってます。

こんな感じで、これさえしておけばオッケー!だったのが増えていくことに、未だに戸惑いながらも日々付き合っています。
朝強くなったとか、いい変化もたくさん。
※一つ言えることは、夜勤はやばいということです。あいつはやばい。
してる人に心からの敬意と感謝を。



次は、言葉について。

話す言葉が私の人格を決めるような、最近そんな感覚がしています。

違うコミュニティに入るということは、言語が変わることだと言ったのは東浩紀だったか誰だったか。きっと色んな人が言ってるね。

ユーモアやアイロニーが成立するように、自分の使う言葉を共通の言語に変えることで溶け込もうとすることを、この半年はかつてなく意識的にやってきたなと思います。

人格なんて他者との関係性の中で成立するもの、という感覚なので、その「関係」の要素の一つが言語コミュニケーションである、とかなんとか考えると、少し理論的っぽく見える形で納得がいく。
そうして出来上がった「私」は、実は私の心地いい私からちょっと遠かったようで、その距離が最近私を少しずつ圧迫するようになり、自覚した次第。



自分が使う言葉に、私の血がどれだけ通っているか。
私の本質と、どれくらい強い繋がりを持っているか。
それが、強制と自由の、キャラと素の、違いなのかもしれない。


取り囲む言葉が変わったことで、私もきっと少し変わって、っていうことに気づいて、その変化をもうちょっといい感じに変えようとしてます。




そう、あいも変わらず私は、少し心が疲れた時にこそ言葉を吐き出したくなるのです。そんなnoteしかないの毎回反省するけれど、まあいいか。



味覚にも変化があり、好きな食べ物ランキングで魚が大幅ランクアップ中


最後は多分1番言いたかった、1番素の、社会人っていうことにより起こった変化

社会人ってものを、感じています。

放っておいたら、自分の人生から自分の意思の割合がどんどん減っていってしまう。
何かが消滅していることにさえ気付かないうちに、私が消滅してしまう。
労働に「疎外」なんて言葉を充てた人は天才だ。

私はきっとレールを降りるのはひたすら下手で、けれど窓の外を無視することもできない。
もやもやするだけじゃこの23年何してきたん?と思うから、グッと腹を括って、見えてきた「これかな」に血を通わせるために勉強して経験して。

23の今は、明日死ぬことより人生が長すぎることが怖いから、ゆとりを持って、たまにこうして言葉を紡いで方向を修正して。


24年目も生きてきます。

よーい、はじめ。



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