短編小説:サルビア

「誠くんのお母さんってどんな人?」
もうすぐ入籍予定でプロポーズ済みの彼女、愛美は何の抵抗もなく、スマートフォンの画面から僕へと目線を移し、そう言った。「顔合わせが初めましてなんてドキドキしちゃうよ」そう言って屈託のない笑顔を見せる愛美と、母の偽物の貼り付けた笑顔が重なる。「母は良い人だよ、愛美のこともきっと気にいると思う」おそらく嘘ではない言葉を並べるも、愛美は納得していない様子だった。「良い人って、曖昧すぎる表現だな。礼儀に厳しいとか、料理が上手とか、細かい情報とかエピソードが欲しいんですけど」母の情報、記憶、エピソード。愛美に映る母が良い人になるように話さなければ。

母は人当たりが良い。
「おはようございます、山下さん」ゴミ捨て場で作業をしている向かいに住む今年で87歳の山下さんに母は明るく声を掛ける。「ああ、おはよう緒方さん。誠くんも一緒にゴミ捨てかい、小学生になっても偉いなあ」明るくて朗らかで87歳とは思えないくらい元気だ。それにいつもたわいもない事で誠を褒めてくれるので誠は山下さんを好きだった。「そんなことより山下さん、カラスが随分荒らしたみたいですね」そんなことより。そう母にとってはそんなことの一部だ。「そうなんだよ、今掃除しようと思ってね。次々に狙われちゃたまらないし」そう言いながら山下さんは箒と塵取りでカラスの荒らしたゴミの残骸達を集めている。「手伝いますよ。誠、箒と塵取り持ってきて」「いやいやそんないいんだよ、老人が勝手にやってると思ってよ」一見して和やかな2人のやり取りの途中、母は僕に視線をやり、掃除を再開しようとする山下さんに聞こえない程度の声量でこういった。「早く」言葉の強さとは裏腹に人当たりの良い笑顔だった。その笑顔を見た瞬間走りだす。早く取りに行けば母のあの笑顔は本物になるだろう。「誠、ありがとう」その言葉を期待した。その後どうなったかは、何十年も前のことで忘れてしまったが、おそらく僕の欲しかった笑顔は手に入らなかったことだけは記憶している。

母は優しい。
2人で、夏の暑い日に買い物に出かけた。どうしても冷たいジュースが飲みたくて、自動販売機の前を通ると母に炭酸飲料をねだった。「仕方ないわね」と了承してくれ、小銭を渡してくれ、買うことができた。ちょうど誠が買うと売り切れの文字が出てなんてラッキーだろうと思った。たまにはわがままも言ってみるものだ。しかしその高揚感は後ろに偶然並んだ親子によって、一瞬で消されてしまうのである。「ママ、ぶどうのシュワシュワするジュースが飲みたい!」声からしておそらく僕より小さい女の子だろう。「ああでも売り切れてる、違うのにしようよ」「ええ、あれがいい、あれじゃなきゃやだ」聞こえてくるそんな会話をよそに、がこんと落ちてきた冷たい缶を誠が手に取る。随分暑い日で、その冷たさと母が買ってくれた嬉しさとで焦って開けようとすると、母がするりと手を伸ばしそれを阻止した。いつの間にか手のひらから冷たさが消えた。「これ良かったら。間違えて買っちゃったので」母は後ろにいた親子にそう言って差し出した。たった今誠が手に取った嬉しさを、いとも簡単に渡してしまったことに母は気づいているのだろうか。「ええ良いんですか?」「もちろんです。ね、誠。間違えちゃったんだもんね」どうやら母の中で僕は間違えちゃったらしい。「うん。間違えちゃった。僕隣のが飲みたかったんだ」まるで本当にそうだったかのように母の期待するセリフを読んだ。「わあい、飲んでもいいの、おばさん」「もちろんよ」女の子は母から受け取った飲み物の蓋を開け、飲み始めた。「本当にありがとうございます。すみません、いくらでしたか」「お代も大丈夫ですよ」そんなやり取りが脳内に流れてくる。結局その隣のジュースを飲んだのかは覚えていない。皮肉なもので、ジュースをもらったその女の子が幸せそうな笑顔でお母さんと手を繋いで去っていったことだけは鮮明に覚えている。

母はきちんとしていた。
週2、3回のパート勤務を休んだ姿は一度も見たことがない。食事も掃除も手を抜いている様子はなかった。トイレもお風呂も玄関も、キッチンもどこを見ても綺麗だった。父が飲み残したビールの缶があろうとも、僕が出しっぱなしにした漫画があろうとも文句を言わず、ただ淡々と片付けた。おまけに片付けをしなさいと言われたこともない。ただ自分が綺麗な状態のへやを保つことができればそれで良かったのだろうと今になって思う。家事全般はもちろん、身なりも綺麗にしていた。高級な何かに身を包むことはなくても、同級生からは誠のお母さんって綺麗だよねと言われることが多く、鼻が高かったこともあったが、母にそれを伝えても「そう」としか返ってこないので伝えるのはやめたし、同級生から言われても嬉しいという感情は湧き上がらなくなった。

「ねえそれって良い人、なの?」
ある程度話終わると、愛美は眉間に皺を寄せてそう言った。「え?」彼女の言うことが理解できず、聞き返す。「私は今少し聞いただけだから分からないけれど、誠くんにとって良い人だったのかなって、思っただけ」自分にとって良い人かどうかなんて考えたこともなかった。「それにさっきから小学生の時の話しかしてきてないけれど、中学、高校の時だって実家にいたって付き合う前に言ってたでしょう。その時のエピソードは何もないの?」愛美にそう言われ、自分の中の記憶が小学生で止まっていることに今更気づく。そういえばどうしたっけ。進路を否定されたこともなければ、当時所属していた野球部の応援も来てくれたこともない気がする。必死に良い人であった母のエピソードを絞り出そうとするも、出てこない。なぜだ、なぜ。頭が混乱する。「誠くんがなんとなく人に冷たいのはお母さんが原因だったんだね」違う。違う違う違う違うちがうチガウ・・・母は優しい。母は正しい。母は良い人なのだ。お前に何がわかる。お前なんかに母の何がわかると言うのだ。
「誠、くん?」目の前にいるのは母の敵だ。母を悪者にする悪い人間だ。
「早く」
母の声が頭の中に響き渡る。
「早く」

気づけば敵はもうすでに僕の横で倒れていた。
良かった。
これで母を守ることができた。

「誠、ありがとう」

目を閉じると母は僕の欲しかった笑顔でこちらを見ていた。



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