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「話せることが、大切」(小林鮎奈さん・その3)

♬るーるる、るるる、るーるるー♪ りら子の部屋です。
小林鮎奈さんをゲストにお招きしています。
精神科の看護師さんであり、最近、心理師にもなられた。そして、精神疾患を持つ親に育てられた子ども」のお立場から、メディアなどでも発信されています。
前回は、「精神疾患を持つ親に育てられた子ども」が大人になって、どんなことに苦労するのか、体験談をお話しいただいていました。その続きです。

前回までの記事は、こちら。                     その1・「精神疾患の親とくらした経験」               その2・「大人になってからが、しんどい」


経過や理由がわかると「一緒にできる」

― 今まで生きてきて、今の自分の生き辛さが何に由来するのか、分かっていない人が多いと思うんです、多分。カラクリが分かって楽になったのは、こどもぴあの人とかに出会って、ああ同じだって。

私一人では分からないですよね。そんな客観的に見きれないし。似たような経験を聞いて、こうなんだって知っていって。でもこどもぴあだけでないですよね。精神科の看護師をやっていると、私にも当事者性があるし、患者さんと話しててもいっぱい見つかるんですよね。

― わかる!私もですよ。ASDの方とかと話してると、ああ俺のことだなって(笑)

そう、自分と話してるような感じで。それで(自分らしさを)見つけてこれたと思うけど。こうやって話したりするのも、聞いてもらって嬉しかったりするのも、今まで生きてきた過程があって、そこで得意不得意があるからで。でも職場の中では、それまで生きてきた過程ってそこまで重視されないじゃないですか。

― 今のパフォーマンスが全て。

そうそう。もちろん、結果や今現在がどうなのかが大事なんだけど、ただ私は、この人が何でこういうことをするのかって考えるのに、今まで培ってきたものとかが(手掛かりとして)あったら、なるほどなって思える。(相手が)自分と違ったりすると、なんでこうなんだろう、自分の価値観と合わないな、で終わっちゃうけど、そこで理由を知ったら、もっと話したくなったり聞きたくなったりして、もっと近づける気がして。その方が「一緒にできる」気がするから。この人がこういう経験をしながら看護やっていて、こうやって生きてきた、これが正しいと思ってきた、っていうものがあるんですよね。それをもうちょっと一緒に話せたらすごく面白いだろうな。「この人と私は違う」ってならないだろうな。こんなことがいっぱいあったらいいなって思いました。

かるがも

私たちはみな、どこか同じでどこか違う、オリジナルの存在。そんな私たちが、何かを「自分のこと」として考えられるには、どうしたらいいのだろうか。
大切なのは、共感力、もしくは想像力なのだろう。水面に浮かぶ鴨だって、水中では必死に足を動かしているかもしれない(写真のかるがもさんは、浅瀬で水底に足をつけている。お休み中だもの)。
共感や想像は、「今ここ」だけでなく、背景を知っているからこそ広がり羽ばたく。そういうことなのだろうか。


りらの中のひとに添ってくださる小林さん

― それは、共通項はあるけど、似たような経験をしているけど、でもみんな少しずつ違っている。同じ経験したんだね、っていうだけでなく、違う部分も自分の栄養になるよね。こんなまとめで合ってる?

合ってる合ってる。

― すごく分かる。私はね…(なぜか私自身の育ちを話し始める「りらの中のひと」笑。詳しくは省略するが、私自身も育ちの中でいろいろと背負い、託され、結局「人に助けてもらうのが苦手」な人なのだという話)

あーそれは興味ありますね。親子関係で何かあったという人、いっぱいいるじゃないですか。親が自分の人生子どもに託す、じゃないけど。私の場合はそうじゃなかったんだと思うけど、期待されたものを背負うみたいなのは、すごく大変だと思うんですよね。親の人生を背負っちゃうっていう人もいるじゃないですか。それを「そんなの知らないよ」って言えて、ちょっと切り離せることってどうなんだろう、って聞いてみたいですね。

― 保護される、ケアされることが、いつか過剰になって苦しくなるんじゃないか、って。それが怖いから、助けてもらうの苦手ですよ。芯のところはそんな感じですよ。

へえ!一緒ですね。「りらの中のひと」さんのインタビュー入れたほうがいいですよ絶対。私だけの考えより広がるし。そういうのを共有できるのも好きだし、大事だと思うし。今まで言えなかったこともあるから、100%とは思わないけど。
自分の価値観が中心のようになっちゃうけど、いろんな人がいるんだって皆が言っていけば、面白いのになって思うし、一緒なんだなって思うし。


その問題は「私たち」のもの

― ちょっと戻るんだけれど、私たちの経験をどう一般化できるかっていうことなんだけど、助けてもらわなきゃだめじゃない、だけでなく、助けてあげなきゃだめ、っていう考えもあるじゃない。

お人よしとかお節介とか言われちゃうこともあるんでしょうけどね。私にそれができるかっていったら、踏み込んでお節介できるかっていったら、できないなって思うこともあるから、難しいですけど、そういうふうに居ようとしたいし、してほしいと思いますね。

― 助けを求めるのも大事だけど、自分が試行錯誤してみるのも大事な時があるし、求めなくても助けてくれる環境ならもっと楽。自己責任社会で、助けを求めるのもそれを受け入れるのも自己責任で、何が起こってもそれはあなたのせい、と投げられるのはちょっと薄情。

そう、冷たいの、世の中。(笑)だって私は縛ってきてたから、いろんな感覚を。「ゼロか百か思考」ってそうやって生まれてくるのかもしれないけれど、今思うのは、あの時自分はこういう制約をいっぱい作ってきたんだ、みたいな。
トラウマ治療受けたことがあるんですよ。そこで自分の考え方の癖をいっぱい考えさせられたんですけど、例えば、あの時一回助けてもらえなかったからといって、世の中の人は誰も助けてくれないんだ、って植えこんだみたいな。

― 小林さんがそういう人だったからというんじゃなくて、小林さんを取り巻く環境もそれを後押ししたっていう。単に個人の認知の問題でなく。

そういうふうに言ってもらえたら楽ですよね。一人の認知の問題じゃないって。みんなつながっているんですよ、私を取り巻く環境の中で(自分の認知が)生まれたとしたら、まわりまわって他の人とつながるから。

― 今日、JR福知山線脱線転覆事故の当日(注・4月25日がインタビュー日)なんです。あれは、運転手の速度超過と、その背景にJR西日本の経営環境と「日勤教育」の問題が指摘されているけれど、電車が遅れて苦情をいう乗客がいるっていうのも事故の背景の一部だなって思った。周囲の人は無関係じゃない。

本当にそうですね。自分だけが大変だってその時は。大変だったけど、大変でないと思い込もうとしていた。もっと大変な人がいっぱいいるし。


話せないと、問題は複雑になる

大変な時って、大変か大変でないかなんて分からないから。学校に行かなかった時期は、つるんでる友達も大変そうなんですよ。家庭環境が複雑な人はいっぱいいたし。うちの場合は両親はそろってたし、調子いい時にはふつうの親だし。お母さんが病気っていうのもそうだけど、お父さんもお兄ちゃんも、いろいろあったし。
私の中の感覚だと、大変なことをひとつ見ないようにしたら、大変なものって影響し合って、問題が増えていく。それについて一番大変なことを話せないと、他の問題が出てきてもそれも話せない。問題が増えるし複雑になると思う。だからオープンダイアローグに関心もったんですけどね。ちゃんと話ができるのって大事だなって思いますね。

(つづく)

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