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『駈込み訴え』読書感想文

太宰治の『駈込み訴え』を読みました。すごいな。
人間の物語ってそういうもんだったな。もともとバラバラだったものを各人が紡ぐんだったなと。


※厳密に言えばネタバレありです。

特に気にする人はそれほど長い内容ではないので、先に、作品を読んで戻ってきてくれたら嬉しいなと思います。(感覚値としては『走れメロス』と同じくらいの長さでしょうか)

で、ネタバレと言っているのは、語り手が誰かということなんですけど、前半2割読んだ時点で察せられるのと、それが「イスカリオテのユダでした〜!!!」ってバラしても、この作品の良さは少しも失われない堅き砦だからいいかなーと。というか感想を書くにあたって、語り手がユダなのは避けて通れないのです。

聖なる書

ここに書かれているのは、新約聖書のいわゆる最後の晩餐で裏切ることをイエスに名指しされたユダの激情と混乱の吐露です。

新約聖書は聖なる人イエスの話です。なので、それを裏切ったユダは邪なる人というのがシンプルな解釈だと思います。聖書をフェアリーテイルと捉えるならば。

聖書の中では、ユダの人物像については、会計士をやっていたという背景と少しのエピソードが語られるだけだったと思います。
なぜユダが裏切ったのか?については、古来からみんな興味があるところなのだと思います。

俗なる人間

これはねぇ、聖と邪の対比ではなくて聖と俗の対比の物語だと思うんですよ。ざっくり言えばユダが人間だから裏切ったわけなのだけど、聖性と対比される人間性の話で、それがすごいんだわ。

これは説明がすごく難しい。というのはユダの語りは激情と混乱の中で語られるので、全体としての整合性をもってユダの気持ちを説明しようとすると、本当にいろんなものを取り落とすんです。ちょうど「受け取って!」って言われて、投網の底が開いて、腕の中に200人分の魚(イワシとか)をドバドバドバーって渡された感じです。そんぐらいの量の激情。

とりあえず、今イワシ半分以上足元にこぼれ落ちちゃったけど、腕の中に残ってるものだけを説明するとですね、ユダの気持ちというのは、自分はイエスの弟子の中で一番イエスを愛していて、彼が布教に取り憑かれていることや、弟子や慕う人たちがイエスの聖性にばかり目を奪われていることが、嫌で仕方ないということなのです。ユダが好きなのは人間のイエスなのです。

理性ゆえの混乱

で、ユダはとても頭のいい人なので、自分の「俗な」イエスに向ける愛と、イエスが目指す愛が折り合わないことにも気づいている。そして、無知・無垢なるゆえにイエスを慕う弟子たちの気持ちが「聖なるもの」だと考えると同時に「聖性?ただの熱狂じゃないのかバカどもが!」と恨むような疑うような理性も持ち合わせていて、ただその理性というのは俗で、、、俗だろうな、、、俗ではイエスに近づけなくて、、、といったような、思考のボルテックス状態で、それが取り落したイワシの何匹かの説明です。

あるでしょ、こういう自己言及的な思考が混乱を呼んで動けなくなってしまって。破壊的な方法でしかそのループを抜けられない、というような精神状態がさ。それがユダの裏切りの理由。

すごいなあと思ったとこ

・「無知=聖」「理知=俗」というような、皮肉にも聖書の知恵の実みたいな話になってたりするの面白いよね

・断片的な整合性だとか、混乱の中にある感情の欠片だとか、読み手が取捨選択してユダの本心のようなものを感じ取らせるように書いてるの面白いなあ。普段、新聞でも記事でも読みやすい一貫性のあるストーリーを読みすぎてるから、想像力が死んでたかもしれないと思ってしまう。

人間の物語ってそういうもんだったな。もともとバラバラだったものを各人が紡ぐんだったなと。


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