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最後の記憶

母が私に最後に作ってくれた料理が何であったか、私は憶えていない。友人と最後に会った日に交わした会話の中身も、忘れてしまった。

大切な人と最初に会った日のことは、不思議と憶えていたりする。赤の他人同士が接点を持つに至った状況、それはそのまま「出逢えた理由」であるのだから記憶に残りやすいのかもしれない。しかし、終わりは呆気ない。その関係が日常に埋め込まれていれば、いっそう、共に過ごしたいくつもの日々の記憶が、「最後の日」の記憶を薄めてしまうのだ。


それが最後だと分かっていれば、記憶に焼きつけようと懸命になるものだ。それでも、私は最後に教室に入った日のことや、バンドで最後にライブをした日のことを憶えていない。「これで終わり」だと、分かっていたはずなのに。


誰かとの思い出として浮かび上がるのは、たくさんの断片的な記憶が重なりあってできた、靄のようなものだ。曖昧な場所の曖昧な風景と、それが何に由来するのかも定かではない、曖昧な幸福感だけだ。


記憶とは、不思議なものだ。

一人暮らしが長かった私だが、夫と二人で暮らすようになってから、身体の奥の方に眠っていた記憶が、ふとした瞬間に甦ることがある。


まだ、子どもだった頃。早く寝なさいと怒られて布団に入るものの、目が冴え、眠れない夜を過ごしていた。居間から聞こえてくるぼんやりとしたテレビの音声とともに、時々、カチリ、カチリとグラスが鳴る音が聞こえた。父が晩酌をしているのだ。両親の話し声が、よく聞き取れなかった。時々、声を荒らげているのが分かった。だけど、私は、布団に入っていなければいけなかったから、ひとり、暗い天井を見上げて、夢の世界に連れていかれるのを待っていたのだった。夜は、まるで永遠に続くようだった。


夫よりも先に布団に入ったある夜、居間から聞こえてきたテレビの音や、カチリ、カチリという食器の音が、身体の奥の方に眠っていた音を呼び覚ました。私は、あまりの懐かしさに泣いてしまった。そして、永遠に続くのだろうと思っていた夜を思って、また泣いた。あの夜はもう、終わったのだ。


産まれてから当たり前に所属していた家族は、いつの間にか、過去のものとなっていた。思えば、家族と最後に団欒したのがいつだったのかも思い出せなければ、最後に家族旅行に出掛けた先がどこだったのかも定かではない。終わり、というものは、退屈な映画のラストのように、重々しくやってくるものではない。それはひっそりと訪れて、あっけなく去っていくものなのだ。