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松田聖子の7インチコレクション

裸足の季節

1980年4月1日リリース、オリコン12位

決して順風満帆ではなかった松田聖子のデビューは、1本のカセットテープを聴いたCBSソニーのディレクター若松宗雄の聴力と情熱のみで、親父さんの反対を押し切って此処まで漕ぎつけたといっても過言ではない、崖っぷちからの、まさに靴も履かせてもらえない裸足からのスタートであった、因みに「裸足の季節」の歌詞に「裸足」という言葉は使われていない、歌詞からベタにタイトルをつけてしまうとCMソングゆえ「エクボの秘密」になってしまう可能性もあったと思うが、そこから「裸足の季節」という飛躍に運命の扉が開かれる

そもそも「スター誕生」のチャンピオン(桜田淳子、山口百恵、ピンクレディー、中森明菜、小泉今日子など)でもなく、ナベプロにも売り込んだが断られ(逃がした魚は大きい)、それでも歌唱力は凄いとゴリ押しでサンミュージックにお願いしたものの期待もされず、高校卒業したら上京しなさい的な、もしその間に気が変わって歌手を諦めるのなら、それはそれで引き止めません的な扱い、がしかし当時のアイドルとしては高卒デビューでは遅い、聖子自身もそれをよくわかっており、地元の高校を卒業せずに焦って独断で上京して堀越に転入、それが功を奏しルイルイのバーターでドラマ出演、その役名から芸名も決まり、デビュー曲のタイアップが決まるもエクボができないのでCM出演の方は叶わず、それで結局必然的に歌唱力のみの勝負となるのだが、ただ歌ってるだけの18歳だったらオバハン、事務所が用意した地味な衣装もかなぐり捨て、他の年下のアイドルと勝負するには揶揄されようがぶりっ子するしかなかったのである、歌とカメラ目線で瞬殺すべく努力した「思いっきりこたえる私です」

B面は何故「〜六月生まれ」か? 松田聖子は3月生まれなので関係なく、そもそも6月デビューの構想でこちらがデビュー曲だったのではないか(歌詞の内容からすれば「六月生まれ」という副題は特に必要ない)、それが急遽タイアップが決まり、新たに「裸足の季節」がA面となってデビューが2ヶ月早まったのではないか、その理由はCBSソニーとサンミュージックが社運をかけ、オヤジ目線で選んだ最優先事項がトラブったからである、靴を脱がされ、裸足にされたのは中山圭子の方であった

そんなこんなで最新情報!昨年より始まったYouTubeの若松宗雄チャンネルにて松田聖子の貴重なエピソードの数々が語られていますが、「RAINBOW〜六月生まれ」は三浦徳子が考えたタイトルであってデビューの件とは関係がないこと、79年夏にサンミュージックの意向を無視して聖子が上京したのは聖子の母親が若松氏に相談してサンミュージックと話をつけて7月2日に上京させたとのことだそうです
https://www.instagram.com/p/CNG682pDwwa/

青い珊瑚礁

1980年7月1日リリース、オリコン2位

「裸足の季節」はオリコン12位だったが、これだけでも充分にヒット曲といえ、よくテレビに出てて何年も活躍したアイドルでも成績的には20位以内に入った曲が1曲のみ、とかそういうのは当たり前、むしろ好成績、そういった意味でやはり「青い珊瑚礁」は「裸足の季節」でデビューして、その後何枚かシングルを出して売れなくて福岡に帰ったとしても地元民に褒められるレベルから、デビュー直前に起こった山口百恵の引退宣言と80年代の幕開けという計算外のリセット感も後押して、誰しもが認めるアイドルソングとなった完璧な1曲、揺るぎない全国区へのキッカケとなった

作詞作曲陣は「裸足の季節」と変わらないが、ポイントは編曲に大村雅朗が起用されたこと、若松Pの回想によれば、山口百恵「謝肉祭」の編曲を聴いて大村雅朗を起用したということなのだが、改めて「謝肉祭」を聴いてみても萩田先生が休むためにヤマハの後輩として代わりにやりました以上の特別なものは感じられない、そもそも「裸足の季節」の編曲(信田かずお)も悪かったとは思わないが、チャンスをもらった大村雅朗が山口百恵X萩田光雄のような関係性を松田聖子で獲得すべく「青い珊瑚礁」に全力で挑んだのは想像に難くない、ということで山口百恵X松田聖子、萩田光雄X大村雅朗、酒井政利VS若松宗雄の対立軸も浮き彫りに

B面も良い曲です
https://www.instagram.com/p/BkrGeMslETk/

チェリーブラッサム

81年1月21日リリース、オリコン1位

ジャケ写にフィルターがかかっているのはデザイン的に良いと思うのだが、アイドルジャケとしては一部で不満の声もある

デビュー2年目に突入、翌年になると明菜他82年組が大挙デビューし戦国時代となるが、81年は百恵も引退し、他の80年組の追随も許さず、ただひたすら上昇気流に乗ればいいという状況、三浦徳子による「何もかもめざめていく新しい私」ってこれ程この時の松田聖子を表現した言葉はないだろう、松本隆ばかりでなく、改めて松田聖子の土台を作った三浦徳子も評価された方がいい(因みに「とくこ」ではなく「よしこ」です)

A面の作曲はここまで手掛けた小田裕一郎ではなく、財津和夫を投入、その代わりB面が小田先生であり、こちらの曲も充分A面に匹敵するようなアッパーな曲のため、財津先生とのA面争いに敗れたような気もする、B面のタイトルは曲調からいって「少しずつ春」では地味過ぎる、ズバリ「エンドレスラブ」でいいと思うのだが、B面用にわざとタイトルを地味にしたのではないかと勘ぐってしまう、兎に角前シングル「風は秋色」がオリコン1位を達成したというのに(惜しくも「青い珊瑚礁」は2位止まりだった)小田先生としてはなんで財津にオファーするのかと地団駄を踏んだのかもしれない、普通なら1位を獲ったコンビにスライドで任せるところだろうが、攻めの姿勢で変えてきたのである、これ結果的に成功したからいいようなものの、もしヒットしなかったら、取り返しのつかないことになった可能性もある、これが若松ディレクターの勝負勘なのか経験からの判断なのかは分からない

アレンジは両面とも大村雅朗、「青い珊瑚礁」以来の担当で今作もまた力の入れようが凄い、それがプレイヤーにも伝わって「チェリーブラッサム」の2分53秒のようなベースプレイが生まれる

近年、松本隆+ユーミンコンビのシングルがあったが、三浦徳子+小田裕一郎コンビの新曲も聴いてみたかった、しかしそれはもう叶わぬこととなってしまった
https://www.instagram.com/p/Bs4X4uiD_6r/

白いパラソル

1981年7月21日リリースの「白いパラソル」のノベルティ盤

記念すべき松本隆作詞シングル第1弾「白いパラソル」ジャケは松田聖子のシングル史上唯一全身が写っているものだが、それを買わずに偶然見つけてしまったこちらをゲット、再三このInstagramでも書いてる通り、B面につまらない曲が入ってるくらいなら、A面のカラオケがイイ、ということで本来B面は『野菊の墓』主題歌であるが、この曲には思い入れがないし(映画も観たことない)、ソニー製品のノベルティだからソニーと関係ない映画主題歌は入れらない、というわけでオリジナルカラオケで大歓迎(逆にカラオケでなければ、この盤はスルーしてた)、松田聖子のノベルティ7インチは他にあるのかないのか不明だが、特にこれは高値ではない、他にもオリジナルカラオケの7インチがあれば欲しいところ

ということで、世界のソニーがおくるレコードプレイヤー(33•45)を購入した人にプレゼントしたであろう販促レコード、「白いパラソル」だからジャケは「ホワイトアルバム」よろしく白くて味気ないものにしてしまったのか、それはソニーに訊いて下さい

裏ジャケがこれなんです

「33•45」なるレコードプレイヤーはヘッドフォンジャックをつけたのが最大の売り、アンプなしで聴けるっていうのが実に今っぽい、ラインアウトでラジカセにも繋げられるので、ラジカセだけ持っててコンポを買う金がない人にオススメなのでしょう、しかし本当に皆がコンポを買わなくなったらソニーも儲からないということで、一時的な戦略だったと思われ、ミニコンポも開発され、数年後にはCDの時代になってしまいます
https://www.instagram.com/p/CgQjyc8vZQu/

風立ちぬ

1981年10月7日リリース、グリコ「ポッキー」CMソング

松本隆が松田聖子仕事にギアを入れたところで、はっぴいえんどメンバーを引っ張り込む、その第1弾がロンバケで復活した大瀧詠一の「風立ちぬ」、そして同じ月に発売されたアルバム『風立ちぬ』(シングルとアルバムタイトルが同じなのは珍しい)もA面は全作編曲大瀧詠一、B面はシングル「白いパラソル」を除いて全編曲鈴木茂という再集結ぶり(細野晴臣はまだステイ)

大瀧詠一の提供曲は1曲入魂のイメージがあり、松田聖子「風立ちぬ」、森進一「冬のリヴィエラ」、小林旭「熱き心に」などのヒットに続けて次のシングルを手掛けることはない、この人にはこういう曲と狙いを定めて的中させ、二番煎じは無い

当初松田聖子は自分には向いてないと歌いたがらなかったそうだが、想像するにそれまでのシングルがエアプレイサウンドでアッパーな流れできたところに、作詞が松本隆に変わって、喉の問題もあったとはいえ、やや落ち着いた「白いパラソル」になり、この路線変更に戸惑いがあったのではないか、ここまで調子良くヒットしてたのに「風立ちぬ」はさらにBPMも落ち、もうジェイグレイドンギターも入っていないストリングスアレンジが幅を利かしている音の壁の大(おお)バラードで、曲の良し悪しよりもアレンジ(サウンド)に驚いたのではないか、19歳の娘にはこれはもっとオバサンが歌う曲なのではないかと古臭く感じてしまったとしても不思議ではない、そこを何とかなだめられたのは予め決まっていた本人出演のCM(グリコ「ポッキー」)のために取り敢えずショートヴァージョンを歌って、と言えたのが幸い、これをきっかけに自分のモノにしたのが松田聖子の松田聖子たる所以だが、もしCM話がなければ、デビューから1年半経ち、ヒットも飛ばし続け、人気も衰えることなく日夜ブラック労働、これだけの結果を出して、もういい加減何でもハイハイと言うことを聞くと思ったら大間違い、とワガママ言い出しても仕方なく、説得に梃子摺ったかもしれない、CMだけのために歌ってシングルは別のを用意せざるを得ない可能性もあったのではないか、或いはB面「Romance」の方が今までの路線で裏切り感はなく、AB面入れ替えになった可能性もあったのではないか

そして無事、A面「風立ちぬ」で1位になったが、この松本隆〜文学路線でそれまでのツッパリファンは切り捨てられたと推測(そして翌年の中森明菜に流れたと推測)、その穴埋めを同性の女性ファン獲得によって埋めるべく、次のシングル「赤いスイートピー」ではユーミンを説得(細野晴臣はまだステイ)、見事に松田聖子自身もお気に入りの曲が誕生したわけだが、結果的に「風立ちぬ」がそのステップになったのであろう
https://www.instagram.com/p/BonghEfhaf6/

赤いスイートピー

82年1月21日リリースの8枚目のシングル

前シングル「風立ちぬ」はザ・聖子ちゃんカットで(聖子カットではなく、ちゃんがつくところが恥ずかしい)、「赤いスイートピー」では髪をバッサリ切ってショートになったという説なのだが、ジャケ写を見ればわかるように実はまだカットはしていない、アップにしてるだけである、ということで段階としては「風立ちぬ」(聖子ちゃんカット)→「赤いスイートピー」(聖子ちゃんカットに飽きたから撮影時にアップにしてみた)→「渚のバルコニー」(アップにしたら新鮮だったので思い切ってショートにした)これでどうでしょう、wikiによれば81年大晦日の紅白では既にショートだったようなので、その前に撮影したと思われる「赤いスイートピー」ジャケがきっかけになったと想像する、この判断が功を奏し、翌82年から続々とデビューする中森明菜や小泉今日子等の花の82年組による聖子ちゃんカット乱立に女の勘で差をつけることが出来た

全シングルの中で「赤いスイートピー」が1番というのに異論はないし、そうあるべきだが、リリースされた当時の評価は絶対的なものではなく、このシングルがリリースされた82年の紅白では何と「野ばらのエチュード」を歌ったという選曲ミス、これはサンミュージックかNHKのせいか知らないが大失敗と言わざるを得ない、それから30年以上も経ってから紅白で「赤いスイートピー」を歌ったらしいが、この時の歌唱じゃないと価値がないのである

B面「制服」は発売後の卒業シーズンに重なり話題になって有線のリクエストが殺到(今でいえばYouTubeの再生回数のようなものか、それにしても有線に電話かけてリクエストしたところで、有線を設置してる家なんて滅多にないし、じゃー有線が設置されてるとこって何処だと言われても即答出来ず、どこでどう聴くんだ?と有線文化については改めて考える必要アリ)、その勢いで「制服」をA面にして再リリースを検討したらしいが、松田聖子シングル連続1位の記録が続いており、外すとヤバイからやめたとのこと

渚のバルコニー

82年4月21日リリースの9枚目のシングル

前作「赤いスイートピー」次作「小麦色のマーメイド」と春から夏にかけての82年のユーミン3部作と勝手に

右手に缶コーラ〜と歌われているが、これもし紅白で歌う場合どうなるんでしょうね? と82年の紅白で何を歌ったか調べたら何とユーミン3部作を外して「野ばらのエチュード」であったと、ありえねーと、今となっては何故「赤いスイートピー」じゃなかったのかと100人いたら100人そう思う案件ですが、もともと自分は紅白に思い入れがなく、昔から観てないので、NHKがNHKであることを誇示するだけの紅白歌合戦は所詮その程度ということで、そもそも紅白ではなくレッツゴーヤングでも歌ってたはずで、YouTubeで探してみたのですが見つからない、とりあえずサビ始まり後の「右手に缶コーラ〜」のAメロの落とし方が非常な印象的な曲なのでした

B面「レモネードの夏」も大変人気がある曲で、これ何かのCMに使われてなかったか?と朧げな記憶でググってみたものの見つからず、とりあえず特にユーミンファンではない自分も82年の3部作AB面合わせて計6曲に感服、そして松田聖子の夏の1枚となれば、81年「夏の扉」でもなく、83年「天国のキッス」でもなく、AB面込みで「渚のバルコニー/レモネードの夏」の夏感を推したいと思います

ジャケ写は一部のファンに不評なフィルターがかってますが、最近ではスマホでも素人が簡単に出来てしまうので、逆にプロはやらない的なことを当時はやってた的なところが新鮮、夏感だから?ここでいわゆる聖子ちゃんカットをバッサリ、前作で髪を切った説もありますが、私見ではアップにしただけで(シェア済「赤いスイートピー」参照)、この「渚のバルコニー」で初めてカットしたかと、そしてここから暫く定まらないショートカットの試行錯誤が続きますが、82年組の判で押したような聖子ちゃんカットの乱立には差をつけられました

これに限らず、夏の歌が4月末にリリースされるケースがあるのですが、早過ぎないですかね? 梅雨頃には曲に飽きてしまって、本当の夏を迎えた頃には次の曲がリリースされている感じが曲の良し悪しに関係なくしっくりこないのですが

思い出したかのようにYouTubeで「レッツゴーヤング」出演回を確認、問題なく「右手に缶コーラ」と歌っていました
https://www.instagram.com/p/Bwdib7HDUXR/

小麦色のマーメイド

1982年7月21日リリース、10枚目のシングル

おそらく成人になってから2枚目のシングルということで、初期の勢いはどこへやら、背伸びして大人びて、たまらなくアーベインで最もライトメロウなナンバー、この頃に中森明菜以下82年組が繰り出してきたが、たるいBPMで余裕をかまして差をつける、サビで「わたし裸足のマーメイド」と歌っているが、タイトルは「裸足のマーメイド」にはならなかった、流石にマーメイドには足ないだろってツッコミをかわすためか、お得意の「色」シリーズに組み込まれた

B面はそれまで意識してなかったが、ファンの中で人気曲とどこかで目にしてへぇ〜と思った次第(自分はこれなら「ボン・ボヤージュ」の方が好きである)、正直マドラスチェックってどんなチェックか知らなかったので、ググってへぇ〜と思った次第

秘密の花園

1983年2月3日リリース、12枚目のシングル

最初は財津和夫が曲をつけてボツになったらしく、そのボツ音源がYouTubeで聴けてしまう恐ろしさ、アレンジまでされており(大村雅朗?)、ここまで作っておいてボツにする判断は凄い(確かにボツクオリティだが)、そしてまだやり直し出来る時間も「ギリ」あったのも幸いして急遽ユーミンに拝み倒したらしいが、「秘密の花園」は何が重要だったかというとピンクレディーが成し遂げた9作連続オリコン1位(当時の最高記録)を破るかどうかの1枚だったことである、よって社運をかけて!といったムードで予算度外視で作り直してもおかしくはない(但し発売日は延期出来ない状況)、聴き比べると同じ詞に違う曲がついてるので、作曲あるいは編曲がどういう役割をもたらすのかが感じ取りやすい、ユーミンが財津版を聴いたのかどうか不明だが、Bメロの落とし方だけは似ている、財津版アレンジは初期松田聖子を引きずったテイストだが(完パケではないにせよ)、ユーミン版は松任谷正隆の洗練された花園なアレンジで「83年の松田聖子最強説」にふさわしい幕開けとなり、見事10作連続オリコン1位でピンクレディーを抜いた

問題はB面である、そもそも財津和夫が作ったB面用の曲がそのまま収録されたのだと思うが、ぶっちゃけA面でダメ出しされて書き直しを命ぜられてもスルーしてB面に自分の曲さえ入れば、シングル売上の印税的には特別な取り決めがない限り慣例としてはA面と同じである、A面はヒットがかかっているので非常に制作がシビアになるが、B面はそれに比べればユルイ、それで印税額がA面と同じってこんなにオイシイことはないだろう(勿論両面手掛けるに超したことはないが)、財津先生がどういうつもりだったか断定する気は無いが、とりあえず財津先生のシングル起用はここで終わった

自分が「秘密の花園」を聴いたのは発売前に坂本龍一のサウンドストリートに松田聖子がゲストで出た回(松田聖子のトーク中にBGMでサイキックTVがかかるなど)でオンエアされた時が最初、そしてその翌月に今度はAMの松田聖子の番組に坂本龍一がゲスト出演して、発売前の「君に胸キュン」がかかって初めて聴くことになる、このお互いの番組にゲスト出演した関係で女性週刊誌にゴシップ記事が出て、当時それを歯科の待合室で読んだことまで覚えている(笑)
https://www.instagram.com/p/BtZ3IEmjo56/

天国のキッス

1983年4月27日リリース、13枚目のシングル

松本隆が聖子プロジェクトにおける最高傑作と謳う細野晴臣作曲によるシングル(とはいえ最高とは松本先生のその時の気分にもよるらしいけど)、確かに自分も83年の聖子最強説を唱えたい、勿論その前も良いのだが、デビュー4年目のこの年が最高潮と言わざるを得なく、ここで1つのピークを迎えたのは間違いないだろう、翌84年もオリコンシングル1位は続いていたが、売り上げは緩やかに下り坂、そして85年に結婚という流れ、引退はしなかったものの、色々な意味で一区切りとなる

82年以降シングルは財津和夫が1曲、ユーミンが4曲、1位を続けないとならないプレッシャーの中、ここらで違う人に書いてもらわないともたないということで、前年12月に出たアルバム『Candy』に2曲提供した細野晴臣に白羽の矢が立った、ユーミンはオファー1発目のシングル「赤いスイートピー/制服」で見事に決めたが、細野晴臣の場合は、いきなりシングルではなく、まずアルバムで試されたのである、しかもアレンジはやらせてもらえず曲提供のみ、その前哨戦をふまえると編曲まで手掛けた「天国のキッス」が会心の一撃だったことがわかる

この曲で特徴的なのは松田聖子のシングルで初めてリンドラムが使われたことではないだろうか、それまでのシングルは全て生ドラムであったように思うのでアイドル歌謡というよりかはテクノ歌謡と言いたくなってしまう、この時期の細野サンのYMOや真鍋ちえみやスターボー等の作り方に近い、特にB面はもう紛うことなきテクノ歌謡、ちなみに「わがままな片想い」はお蔵入りした小池玉緒「カナリア」を松田聖子用に改良した曲である

しかし松本先生が「天国のキッス」を最高傑作というのは少々意外で、大方の見解としては「赤いスイートピー」で決まりだと思うし、83年最強説の自分としてもそれに異論はない、やはり細野晴臣作曲ということではっぴいえんどコンビでやれたということで思い入れがあるのかもしれない、リヴェンジというか、はっぴいえんど解散から10年でここまできた感慨もありつつ、松田聖子も83年が最強だったということなのではなかろうか

オリコン83年5月9日付初登場2位(翌週1位)、この時「君に、胸キュン。」は前週2位から6位にダウンしており、「胸キュン」の1位を「天国のキッス」が阻んだというのは嘘である

追伸、「天国のキッス」は細野サン自身が出演した日立のCM曲を改良したものです
https://www.instagram.com/p/Bwvksy1j7fu/

ガラスの林檎

1983年8月1日リリース、14枚目のシングル

「天国のキッス」から連続で細野晴臣曲のシングル、再三83年の松田聖子最強説を唱えてきたが、デビュー4年目にして事務所もそう考えていたのか、レコード大賞を獲れるような大層な曲を、例えば「明日に架ける橋」みたいなという要請、千鳥ノブ風にいえば「大(おお)バラード」ということで、見事に「天国のキッス」と表裏一体の名曲が誕生、しかし改めて思うに松本細野両氏とも本気出し過ぎて、シンプルにいえば高尚過ぎて大衆に今ひとつ深く届かなかった感も否めない、結果レコード大賞は「矢切の渡し」になってしまったが、そもそも「矢切の渡し」は「君に、胸キュン。」の1位を阻んだ曲(よくある「天国のキッス」説は間違い、ここ重要)でもあり、もっというとそもそもはちあきなおみの曲、となかなかに厄介な存在、ついでにレコ大狙いで作った曲というと和田アキ子「あの鐘を鳴らすのはあなた」(これも大バラード)があるが、その時の大賞はちあきなおみ「喝采」であった

そして良い意味で厄介なのはB面「SWEET MEMORIES」である、これは予めCMで使うことが決まっており、その条件として英詞の部分を作ったということなのだが、その反響のほどをどれだけ予測していたのか、CMでは最初クレジット無しで評判になってからクレジットを出したのだが、評判にならない可能性もあるし、予めどこまで計算してたのか興味あるところ、今となっては伝わらないかもしれないが、アイドルが英語で歌ったことのインパクト、端的にそれのみで世間を突き動かした、アイドルは英語でジャズっぽい曲を(うまく)歌えるわけがないという固定観念を覆す、あんなに毎日テレビで耳にしてた松田聖子の声がクレジット無しの歌だけでは最初はわからなかったのだから、のどかな時代である、そしてようやくここで世間は松田聖子は(アイドルなのに)歌がうまいと認めたわけである、逆にこれが英語でなければ、お馴染みの松田聖子ということでさしたる話題にならなかったのではないか

さて評判になったところで、ジャケを変えて再発売となったが、長年自分は「SWEET MEMORIES」をA面に変更したと勘違い、しかし確認したところB面のままだった、つまりただジャケ(紙)を入れ換えただけで盤はそのままであった、これは既出の「赤いスイートピー/制服」でも触れたが、もし「SWEET MEMORIES」をA面にして1位にならないと連続記録が途切れるリスクがあるので、あくまでも「ガラスの林檎」の品番のまま両A面という理屈が通らないスタイルで押し通したということ、結果的には「SWEET MEMORIES」でも1位になり(というか返り咲き)、1枚で2度売れて、普段のシングルの2倍の売上になり、80年代の松田聖子の最も売れたシングルとなった

で、そこまで評判になった「SWEET MEMORIES」であったが、大晦日の紅白で歌ったのは「ガラスの林檎」である、前年は「赤いスイートピー」を歌わなかったり、「SWEET MEMORIES」だと思ったら「ガラスの林檎」だったり、紅白の選曲の基準というものがわからない

ちなみに「SWEET MEMORIES」は大村雅朗がドナルドフェイゲン「愛しのマキシン」を松田聖子でやりたかったのだと勝手に思っています

さらに1年後、安田成美のシングル「銀色のハーモニカ/悪戯な小鳥」にて作詞・松本隆/A面作曲・細野晴臣、B面作曲・大村雅朗の組み合わせが再び実現してるので聴き比べるのも一興
https://www.instagram.com/p/BmFSrP2h-At/

瞳はダイアモンド

1983年10月28日リリース、前シングルに続いて両A面?

黄金期83年の締めくくり、元々このシングルの発売日は決まっていたのかもしれないが、前シングル「ガラスの林檎」(シェア済)のB面「SWEET MEMORIES」が思わぬヒットとなり、10月31日付で再び1位になったので、28日発売の「瞳はダイアモンド」とクロスすることになり、結果11月7日付のチャートでは「瞳はダイアモンド」が初登場1位、2位が「SWEET MEMORIES」のワンツーフィニッシュ、これはこれでオイシイのかもしれないが、食い合った気もするので、83年のラストシングルとするなら1ヶ月ズラして11月28日リリースでもよかったのではないか、というのは素人考えか、兎に角それくらい「SWEET MEMORIES」のヒットが計算外だったということか

80年のデビューから83年末のここまで一直線に大人の階段を登ってきたのは曲調ならびにジャケのスタイリング込みで一聴一目瞭然、トップアイドルによるAOR/MOR/ライトメロウ路線ここに極まりけり、タイミング的に「ガラスの林檎 / SWEET MEMORIES」の両面ヒットを踏まえてなのか予め決まっていたのか微妙だが「瞳はダイアモンド / 蒼いフォトグラフ」もB面がドラマ主題歌ゆえの両A面、両面ともBPMおよそ80の歌唱力がないと持たない曲調、2曲が収録されている83年末にリリースしたアルバム『Canary』も不倫の曲や4ビートナンバーを含む大人びた内容でクオリティ的にある種のピークに到達、しかしハタチを過ぎたとはいえ、このまま突き進むとアイドル歌謡からアダルト歌謡になってしまうのを恐れたのか、翌84年の次のシングル「Rock’n Rouge」からサウンドとジャケが若返りを図る、「瞳はダイアモンド」と「Rock’n Rouge」のジャケを並べてみれば言わずもがな

因みに自分が好きなアルバムは『Candy』と『Canary』です
https://www.instagram.com/p/BpdmBu7DUcQ/

Rock’n Rouge

1984年2月1日リリース、16枚目のシングル

あくまで私見ではありますが、松田聖子のピークは83年、それ前提での84年の1枚目、ここへきて改めて化粧品のCMソングというところが、安全牌というか手堅くきたなと、厳しくいってしまうとタイアップつけないと売れなくなってきたのかと、当時はもっと漠然した思いでしたが、段々自分も年齢的にベストテンなど観なくなってきた感じも合わさって、元々「裸足の季節」からCMソングだったとはいえ(資生堂からカネボウになった裏事情があるのか否か)

今回この曲のボツ歌詞ヴァージョンがあることを知り、YouTubeで聴きましたが、松本先生もそろそろ煮詰まってきてたのかなと、ユーミンもコレと次の「時間の国のアリス」でもって力尽き、提供曲が途絶えます

売り上げ的には年間3位の大ヒットながら、年間チャート10位内に入ったのは「Rock'n Rouge」のみに対し、中森明菜とチェッカーズは各々3曲も入る世代交代の勢い、完全に圧されてる感で聖子自身も今後を考え始めたのではないかと、今と違ってアイドルは長く続けるものではないという空気もあったので、84年の成績(シングルは全部1位を獲ってるものの)を経て、85年に結婚で区切りをつける(引退ではないのでややこしいが)流れは納得といったところ、あくまで後から考えた話ですが、この曲からそのカウントダウンが始まっていたといっても過言ではないかと
https://www.instagram.com/p/CK0I93Uj2bp/

時間の国のアリス

1984年5月10日リリース、17枚目のシングル

独断と偏見かもしれないが、松田聖子のピークは83年であるからして、84年のこの時点では新しい作家を見つけたいけど見つからないので、ユーミンに頼らざるを得ないと解釈、1位を獲り続けないといけないというプレッシャーの中、「ロックンルージュ」と2曲連続担当して、もう限界というような感じは致し方もない、ここでユーミンの曲提供は一旦終わる、以降のシングルは再び細野晴臣を経て、ようやく新たな作家である佐野元春、尾崎亜美の流れに

83年末までにAORまたはMORまたはシティポップ〜ライトメロウ路線を極めてしまったので、84年からサウンドは若返りを図ってロックテイストを注入、露骨に「ロックン」ルージュ、そして「時間の国のアリス」では本来松任谷由実+松任谷正隆はセットであるはずが、正隆アレンジをボツにしたのか最初から大村雅朗だったのか不明だが、初期に回帰するような「ロックン」サウンド、しかし「青い珊瑚礁」のようなハチ切れるメロディラインは松本隆以降(「白いパラソル」以降)は封印されているので(おそらく喉のせい)、あくまで「初期に回帰した」ではなく「初期に回帰するような」である

状況的に1位を獲り続けないといけないということが重荷になってきたのではないか(ちなみにオリコンでは1位だが、「ザ・ベストテン」では1位ではない)、もはやタイアップなしのA面というのはリスキーであり、本来ここでは映画主題歌である「夏服のイヴ」がA面でもおかしくはなかったが、いかんせん何のチャレンジだったのか、日野皓正の曲になってしまった、夏休み映画であるからして「天国のキッス」の2番煎じでも良かったと思うが、前年の「SWEET MEMORIES」の成功を引きずっていたのか、だったら本当にズージャの人に頼んでしまえ、という発想だったのではないか、ちなみにこれに限らず両A面というのは、レコード会社の御都合主義的な産物だと思っており、要はシングルを1曲ではなく2曲で勝負させてくれってことでフェアではない気がするのですが...
https://www.instagram.com/p/COrtAM2DBDz/

ピンクのモーツァルト

1984年8月1日リリース、前作同様カネボウCMソング

細野晴臣作曲の「ガラスの林檎」から間が空いていない印象だったのだが、実際は1年後でした

何度も触れてるので簡単にいうと83年がピークで84年から中森明菜やチェッカーズに押されて、オリコン1位は獲り続けているものの徐々に下り坂、あくまで松田聖子基準でナンバーワンの維持が難しくなってきたというレベルの話だが、従来より風向きが変わってきたのは否めない

青い珊瑚礁/白いパラソル/赤いスイートピー/小麦色のマーメイド/黄色いカーディガン等々「色」シリーズが続いたが、ピンクでモーツァルトとはこれ如何に、前作「時間の国のアリス」では本来ユーミン+松任谷正隆であるところを大村雅朗に変えていたが、今作は細野晴臣+大村雅朗ではなく細野晴臣+松任谷正隆、ある意味ティンパンに戻ったともいえるが、若松P的にはマンネリを防ぐ意味合いだったかもしれない、細野晴臣+誰かの共同アレンジの時には細野晴臣がリズムアレンジ(リンドラム+シンセベースなど)、ストリングスその他上モノを大村雅朗や松任谷正隆、中森明菜の場合は萩田光雄が手掛けるパターン

B面「硝子のプリズム」は「天国のキッス」のB面曲「わがままな片想い」の姉妹?的なナンバー、ついでに色シリーズもやけっぱちで?完結すべく虹色で全部のせ、そして「ガラスの林檎」の「ガラス」とは違うことを強調するための「硝子」、残念ながら細野晴臣提供曲(全8曲)もここまでとなってしまった
https://www.instagram.com/p/BmHynwkhrbD/

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