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細野晴臣『イエロー・マジック・オーケストラ』

1978年11月25日リリース
77年にアルファレコードが発足し、細野晴臣がプロデューサー契約のオファーを受けて、まず手掛けたのがリンダキャリエール、一応アルバム完成まで漕ぎ着けたが、海外マーケット用に作ったものの商談成立せず、村井社長の判断でお蔵入りとなった(プロモ盤は激レア激高値)

後々発売する動きもあったが、リンダ本人が歌い直したいとのことでお蔵入りのまま、マルチが残っていれば実現可能だと思いますが... 

引き続き、Dr. Buzzard's Original Savannah Bandスタイルのバンドを構想、マナという新人ボーカリストと林立夫と佐藤博で「イエローマジックカーニバル」を新たにカヴァーするというアイデアがあったが、林立夫がマナは自分でプロデュースしたいと主張して頓挫

79年3月発売、シングルヴァージョンは鈴木茂、アルバムヴァージョンは今井裕が編曲

せっかく村井社長からアルファに誘ってもらい、会社発足会見でも「イエローマジックバンド」をやると宣言してしまったが、2つの構想がダメになり、半ば仕方なく?ソロ『はらいそ』のレコーディングに入る、当然のように林立夫や佐藤博も参加しているが、あくまでセッションミュージシャンとしてであって、バンドは組まないというスタンスである、そして『はらいそ』は完成に近づいたが、完成後に棚上げになっている「イエローマジックバンド」を何とかせねばということで、林立夫と佐藤博に代わるメンバーとして高橋幸宏と坂本龍一に白羽の矢が立ち、年が明けた78年1月に「イエローマジックバンド」構想前提で組まれたセッションが「ファムファタール」であり、これが初めて3人揃った演奏となる(内2人だけの組み合わせは既にあり)、3人各々演奏がうまいのは当然だが、相性の問題もあり、合わない可能性もあったわけだが、既に細野晴臣的には選り好みしてる状況でもなく、無事レコーディングを終え、坂本+幸宏を自宅に招くという流れなのだが、長年定説だった「ファムファタール」の録音日ならびにコタツを囲んでの構想話が同じ日というのは違うようで、録音から暫く経って改めて集まるべく日程が調整されたのが2月19日のようである

シンセサイザーを使用することは書いてあるが、コンピュータを使うことは書かれていないことがポイント、結果的に見事ビルボードにランクインした「ファイア・クラッカー」は4分50秒、12インチ用に9分のロングヴァージョンは作られることはなかったが、7インチ用に1分ほど短くなった4分弱のヴァージョンは作られた

そして細野晴臣が持ちかけた構想に対し、サディスティックスの状況が不満だった高橋幸宏は即承諾、坂本龍一は特定のバンドに所属するのに躊躇いがあり保留となったが、幸いレコーディングまで半年近くあり、その間に予め仕組まれたような奇跡の流れ(『Pacific』〜『Saravah!』〜『コチンムーン』〜『千のナイフ』)がお膳立てとなって、無事7月10日に3人揃ってレコーディング開始となる

レコーディング前後にアルファのスタジオで撮られたと思われる

なお、US版リリース後にオリジナル日本版は生産中止になったという話もあったが、US版と並行してプレスし続けられた(アルファレーベルデザイン的には3種類アリ)

帯にある「CATCH UP! FUSION」のコピーはこのアルバムの音に対してつけられたものではない、同時期に発売された大村憲司吉田美奈子等々のアルバムの帯にも入っているアルファレコードのキャンペーンのこと、その延長に紀伊國屋ホールで行われた「アルファフュージョンフェスティバル 1978」があり、当初細野晴臣はラインナップから外されていたが(アルファからはフュージョンと思われていなかった証し)、チケットの売れ行きが悪いことから、固定ファンが見込める細野晴臣が追加され、その日程は即完売になった、このLIVEをA&Mのトミーリピューマが観てUS版のリリースに繋がる

78年11月9日には新宿ロフトでニューディスク・コンサート 早聴きシリーズ1〜イエローマジックバンド 待望のアルバム「イエローマジ ックオーケストラ」を聴くが開催され、ゲストに3人も登場し(なんとチャージ無料!)、話を交えながら、出来たてホヤホヤの発売前のレコードを聴くイベントだった模様、この日の観客は一般的に最も早くYMOを聴いたことになるだろう

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