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【歴史の本文】カタルーニャという国(表)

苦しみのみが我々を人間にする

-ミゲル・デ・ウナムーノ

バルセロナは、都市としてもクラブチームとしても極めて政治色が強い。

特定のクラブにおいてファンやサポを名乗っていれば理解は早いだろうが、拠点周辺の雰囲気や地理、歴史的背景に、チームは大きく影響を受ける。

乾燥しやすいスペインにあって地中海に面しているバルセロナは、湿潤な気候になることもあってかなり過ごしやすい。3月はたまにスコールのように大雨が降る瞬間もあったが、日本の温暖湿潤気候(最近亜熱帯ではと思うが)に馴染みがあれば、ほとんどの日をストレスフリーで過ごせる。

しかしマドリードに向かうより国境を越える方が早いバルセロナは、スペインの中ではフランス国境に近く、その地理的条件が影響して紡いできた独特の歴史や文化を持つ。

紀元前までさかのぼれば、元々バルセロナは植民都市、他人のものである。

北アフリカのカルタゴ(現チュニジア)より領土としたバルカ家を由来とするこの都市は、その後1000年近くに渡りイスラム教徒とキリスト教徒の間で好き勝手占領され、10世紀末になってようやく独立し、「カタルーニャ」の源流となる君主国を11世紀にやっと創ることができた。1137年、カタルーニャ公国は隣国のアラゴン王国と連合国家を形成したが、政治はそれぞれ独自に行われた。

「カタルーニャ」は国名であり、かつて確かに国があった。その事実が独立と自治を逸らせる。

3つの大陸に囲まれ、波も緩やかな地中海で貿易を行い、14世紀までは街が活気づくほど儲けることができていた。しかし15世紀に入るとカタルーニャ・アラゴン連合とカスティーリャ王国間の王朝統一で首都がマドリードとなり、「中世の衰退」によって言語だけが置き去りにされた。

スペイン語よりも、隣国で使われるフランス語やイタリア語に近いカタルーニャ語とカスティーリャ語のバイリンガルが、現在も多数を占める。そういう意味で、カタルーニャ地方はスペインではない。

シャビ在籍時、記者会見はこの2言語がよく飛び交っていたのを思い出す。彼らは君主国として確かに在ったときから、スペイン統一で自治権を失ったとしても、たとえ中心地が変わろうとも、その一帯を国として認識し、理解している。

人は国に住むのではない。国語に住むのだ。
「国語」こそが、我々の祖国だ。

-エミール・シオラン

スペイン継承戦争の中でも最後の戦いである1705年からわずか10年の間、第一次~三次まで3回にわたるバルセロナ包囲戦で敗れ荒廃する。自治権を奪われ、カタルーニャ語も禁止された。その後イベリア半島で産業革命に成功した唯一の地域として再び活気づき、勢いそのままにカタルーニャ復権運動が起こる。

この「国」の浮き沈みは、常にフランスをはじめとする諸外国からの侵攻や、組した巨大な勢力に紐づく領土拡大などが影響している。歴史の渦に呑まれ、奪われ続けては取り戻してきた自由が、独立したい反発心をくすぐり続ける。

1898年にスペインが米西戦争に敗北し、キューバを失う痛手を負う。後に大暴動へ発展する火種になるのだが、逆にカタルーニャ主義は勢いを増していった。

翌年の1899年、FCバルセロナが創設される。ソシオという形で会員を募り、会員費で運営する形態が伝統となり、以後107年間は胸にロゴがつかない。誰のものにもならず、外からの支援も受けない。「カタルーニャにある、自分たちで創り上げるクラブ」。

設立より30年後、やっと初タイトルである。産業革命と工業化の煽りで移民問題が深刻化し、人口が爆発的に増えた上、スペイン=モロッコ戦争に端を発する予備役への暴動とストライキ「悲劇の一週間」を乗り越えたバルセロナは完全に疲弊していた。「都市が戦場である」という戒厳令さえ敷かれた時代を経た初タイトルは何物にも代えがたい潤いだったろう。

その3年後にはカタルーニャ自治憲章が成立。ようやくカタルーニャはスペインに属する自治州として認められた。

あらゆる苦しみを乗り越え人間となり、待望の瞬間を迎えたわずか7年後、36年に及ぶ弾圧と恐怖が人間性を迫害する。

「フランコが戦争の通常法規に違反していなかったなんて、誰にも言わせはしない」
-ホセ・モレノ(バスク最後の兵士/'19年時点で御年100歳)

1938年3月、バルセロナが反乱軍による無差別爆撃を受ける。内戦で共和国側のカタルーニャはドイツ・イタリアと手を組んだ反乱軍に敗戦。1939年から始まるフランコ体制下で、クンパンチ元首相含む3500人強が軍法会議の末に銃殺された。内戦時にフランコ政権へ抵抗を示したFCバルセロナも例外ではなく、当時の会長は暗殺された。血の歴史である。

目の敵にされたカタルーニャへの弾圧は、伝統音楽や祭礼、地名や通り名まで及び、政治的・文化面ともに徹底的な抑圧を受ける。親にもらった名前までもスペイン語に変えられさせられたのは、屈辱の極みだったろう。

こうした中FCバルセロナは、ブルジョワの独裁政権への運動の成果から「MES QUE UN CLUB(クラブ以上の存在)」=「カタルーニャ民族主義の象徴」としてなんとか維持された。しかし、血と煙が舞う内戦を経て迎えた1942年の総統戦クラシコ、現在まで続く因縁のきっかけとなったこの試合、中央政権から支援を受けたレアルは戦力差を段違いに広げており、バルセロナは11-0で蹂躙される。

構図は現代でお馴染みのカタルーニャ対中央政権というより、経緯と歴史、感情を考えると、当時は共和国対反乱軍の代理戦争として観ていたとする方が近いのかもしれない。レアルマドリードというチームを盾に、裏側にはフランコがいる状態では、怒りと憎しみを盾にぶつけるほかない。

フランコが死亡して民主化へ移行し始めたのが1975年。クライフの監督就任は1988年。両者には「たった」13年の乖離しか無く、ごく「最近」のことである。

人類の歴史は、迫害の歴史である。

-犬養道子

アメリカで9月11日と言えば間違いなく同時多発テロだ。恐らく日本でもそうだろう。

カタルーニャでは先述のバルセロナ包囲戦、スペイン・フランス連合軍に敗北した「カタルーニャの国民の日」(La Diada Nacional)を指す。

国語だけが手元に残り、矜持を失いかけては乗り越えること幾星霜。一度は自治権を回復させたが、攻撃され、弾圧され、果てに国語さえも奪われた。

しかし、どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても、カタルーニャの人々は過去を忘れるように努力しようとはしなかった。

フランコに弾圧されても、彼らの国語は密かに継承され、カンプノウで叫ばれ、次代に種を撒き続けた。自治権を再び取り戻したのも構わず、夜が明けても忘れまいと、血を流した過去を国民の日に選んだ。

どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても、FCバルセロナはカタルーニャのアイデンティを守る最後の牙城であり続け、経営が苦しくとも不動産売買でなんとか黒を出し、暗闇を抜けながら現在までその形を残している。

クラブに支えられ、クラブを支えてきた関係性は、古参であればあるほど単なるサポーターの域を超えてくる。場所や空間、政治制度に血を通わせることを好む国民性が、会長選挙の選挙権をソシオが持っている点でクラブそのものに表れている。

スポンサーがつき、マネーゲームに巻き込まれてはじめてから通常のクラブと混同されがちだが、非常に政治を持ち込まれやすく、ピッチ周りの状態が街の状態を反映しやすい「脆い」クラブである。

街に目を向ければ独立運動も盛んになっており、予断を許さない状況が続いている。

チームに目を向ければ、バルベルデが退任し、新たにキケ・セティエンが就任した。リーガで首位、CLでグループリーグ突破が決まっていた、という結果だけ見れば、無理にでも任期を押し切れたにもかかわらず。

スーペルコパは確かにトドメになっただろう。ただ、会長選を控えたこのタイミングで、本当にそうだろうか。本年契約分の金額を払いきらず、保留のままうやむやにしている報道まであった。イニエスタにまで苦言を呈された今回の解任劇は、見た目そのままに受け入れていいものか。

今日まで、チームと街の生き延び方は、それぞれ無関係では済まなかった。これからもそうだろう。

辛酸を舐めてきた人種によって作られ、同じように血を流してきたこのクラブの「政治」は、悟られまい、察せられまいと、サッカーで彩られるカバーストーリーの裏で走る。何も考えていないと、何がプロパガンダなのか分からなくなる。自分は未だに騙される。

ただ、裏側に入って行き過ぎると、サッカーを純粋に楽しめなくなる。しかし知ろうとしなければ、バルサのことが分からない。

長い前振りが続いた。ご存知の内容も多々あっただろう。別日で挙げる「裏」が本番になる。

「裏」で、迫る会長選の話ができれば幸甚である。

深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている。

-ニーチェ




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