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言語結晶

人にあまり興味がないせいか、自分も人から覚えられたり認識されると思っていない。相手のこともろくに覚えていないし、相手もこちらをすぐに忘れる。最初からこうではなかった。軽薄に誰かを強く強く信じたし、予想外に裏切ってしまったこともある。自分が行いうることを人がしないと思うのは想像力が無さすぎる。ここ数年は裏切られてもよいと思う人だけを信じて、誠実に向き合うことにしている。痛みはある。痛くて良いのではないか。言わなければ誰も傷つくことも、不快な思いをすることもない。共感を求めない感情は存在しないことになる。
わたしに対して、明確に誠実に必要とする人がいれば個人的な人間関係を作る。それ以外はなにもかも要らない。この条件下に於いては、わたしが誰も必要とせず、誰もがわたしを必要としない状況が容易に成立する。なにもかも失ってから今のようになるまでに長い時間がかかった。かっこつけることも斜に構えることも諦念することも面白くない。子供だましの暴力やロマンスとして必要だったロマンスも飽きて、歳月とは常に未来でしかない酷な事実を知った。過去は祈りでしかなく、その祈りをより強くするために、その結果として今があると思いすぎてはならない。
今。現在とは未来が常に激しく運動している場で、わたしは、わたしたちはあらゆる方向から滝のように降るそれをただ浴びながら抗い、あるいは漂い、翻弄されながらもどこかへ向かう群れだ。
未来は常に不測で、一度進むべき方向が見通せたとしてもそれがずっと有効ではない。群れのなかの個体としてひとり、存在を獲得するのには限度がある。それを知るときに人は、自分と同じ境遇の人や、気の会う人と手を繋いで、誰かが狼狽えたり沈みかけたときにそっと引き上げる。
手で触れることができなければ視線を送り、声をかける。存在していても良いのだと。わたしはここにいる、ということを示すことで、それがわかるあなたも存在しているのだと示す。それをお互いに繰り返しているだけだ。ソーシャルメディアもそれで成り立っていて、無機質なようでありながら実際は生命の場であることから逃れられない。スパムやスパイウェアや事故でネットワークが破裂するまでこの状態は続く。
そこにある言葉は不完全で、見るもの聞くもの感じる物事すべてを示すことができない。言葉とは最初から不完全なもので、それが救いだ。なにもかも示せてしまえば言葉だけがあればよくて、人間は要らない。たとえば本があったとして、それは全て過去だ。過去の誰かがの感情や感覚、思考の中から言葉にすることができたごく一部を結晶化したものだ。わたしはかつて、膨大な古書を前にしたときに、これを書いた人の殆どが今はもう生きていないことに気が付き、恐ろしくなり、悲しくなり、傷付いた。と共にそれらがたまらなく愛しくなった。わたしにとってこの感情は並立する。同時に存在しうるものだ。

誰かと特に意味のない会話をすることも、会話のないまま別々のことをしながら過ごすことも好きだ。愛すべきことは言葉の外側にあり、私たちはだから、なんらかの手段でそれを人に伝えようとする。映画、絵画、小説、詩、舞台、音楽、ときに生きることに役立たないと言われるありとあらゆる表現が好きだ。それは過去になる。畏れは愛でもあり、祈りでもある。全てが繋がっていく。
ならば、言葉にならなくても、同じ時を生きる人とは向き合っていくべきなのではないか。
この態度で数年過ごしているが、わたしは日々、ただ忘れられていく。わずかな時間だけ人前に現れるわたしは、何色の結晶なのだろう。ときどきふと、そのことが気にかかる。

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