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父へ

この御時世、人が多く亡くなっているのを耳にすると私にはどうしても思い出してしまうことがあります。

”パパと一緒に来るか?”

3月11日は私の弟の誕生日。そして9年前に父の命日となりました。

私の父は、私が13歳の時に母と離婚しました。父は婿養子だったために父だけが家を出て行きました。私は兄弟の中でも父親っ子で父が大好きで、父もまた自分に似ている私のことがお気に入りでした。だから父は、家を出る時に私だけは連れて行きたいと母に頼み母は子供の幸せを考えるべきだと激怒しましたが、最終的に私の答えを尊重するということになり、母の前で父に聞かれました、”パパと一緒に来るか?”と。13歳の私はそれを理解しているようでしておらず、兄弟と別れることの寂しさと母に促されるままに首を横に振ったのを覚えています。

今でもニュースは見れません

父が家を出て、私は留学しました。なので父が家に帰らないという実感などないままに他国での生活が始まったため、父と別れた寂しさもあまり大きくなく新しい国での生活に追われていました。

約2年が経ち、高校に入学と共に帰国した私はまた部活動と新生活に燃えていました。そして次の日から春休みという3月11日にそれは起こりました、東日本大震災。私の出身地は震源となった宮城県。道路は地割れ、窓は割れて、同級生が泣き出し、徒歩での帰宅途中に予報にもなかった雪が降り出し、いよいよ世界の終わりだと思っていました。家に着くなり、まだ家に到着していない家族に混雑してなかなか電波を拾えない携帯で連絡をして、何とかみんなが家にたどり着きました。父を除いて。離婚をしているので家には帰ってこないのですが、どこかで確信していました無事であると。

震災の日の夜に、ラジオから流れる情報があまりにも現実的ではなく、リポーターがパニックになって変な情報を流していると思っていました。何千人もの遺体が浜辺に打ち上げられているなどあり得ないと。そして次の日の新聞でそれが事実であったことを知りました。映画のような黒い大きな波と燃える町が表紙となっていました。

震災から10日以上経ち、父が行方不明であると母に告げられました。頭の中が真っ白になり、慌てて父の携帯に電話をかけましたが繋がりませんでした。父の携帯の番号を忘れることはこの先きっとありません。

それから日を浅くして、酷い顔色の母から父が遺体で見つかったと知らされました。それまで生きてきてあんなに泣いたことはありませんでした。

その日の夜に夢を見ました。昔、家族で毎週末に買い物に行っていたスーパーにいる夢。その夢の中で私は5歳くらいの年齢で、背も低く、離れたところで父が私のことを探しているのに私と父の間には人の波があり父の方には行けないという夢。結局その夢の中でも私と父は会えませんでした。

もう9年になりますが、今でもニュースは見れません。人が死ぬ悲しみと苦しみの事実を平坦と伝えるニュースが恐ろしいからかもしれません。

記憶

水死だった父は体が腐ってしまう前にすぐに火葬する必要がありました。その前に父の最期の顔を見に来てあげてほしいと父の兄弟から連絡があり私と母は遺体安置所へと向かいました。私以外の兄弟は辛すぎて行くことができませんでした。私も同じ気持ちではありましたが、父が待っている気がして行かないという選択は自分の中にはありませんでした。

遺体安置所に向かう途中の町があったであろうあまりにも悲惨な光景を覚えているのですが、遺体安置所についてからの記憶は曖昧にしか残っていません。父の姿を見て、”パパ”と何度も呼びかけたはずですが父の最期の顔を私は思い出せません。というよりそれを記憶のずっと奥にしまっておかなければ私の精神が危うかったため、自分が自分を守ったのかもしれません。

助けに

父の実家は沿岸部にあります。小さい頃よく遊びに行ったので覚えています。歩いて海にいけるほど海が近く、いちごが美味しいところでした。

震災の時に父が住んでいたのは内陸で海とは真反対の場所のはずでした。

父方の祖父が教えてくれました。父は津波が来ると知って会社から車を走らせて、自分と祖母を助けに来たと。車で逃げる途中に波にのまれてしまい、祖父だけが助かり、父と祖母はそれっきりだったそうです。

それでも母と私たちを愛していた父

離婚したとはいえ私たち兄弟は父の子供なので、相続などの話があり父が住んでいた家に母と2人で荷物の整理に行きました。父が住んでいたアパートは震災の1ヶ月前くらいに引っ越してきたばかりだったようでまだダンボールの中に入っている荷物もありました。

アパートについて母が涙を流しました。それは最後に父が住んだアパートは私たち兄弟が生まれた病院の目の前だったから。何を思ってここに住むことにしたんだろうと母は泣いていました。

私は荷物の整理途中に母に隠れて泣きました。それは父の枕元にあったのが母の写真だったから。たった1枚だけ写真たてに入っている母の写真。

父の部屋のあちこちに私たち家族の記憶がありました。離婚して別で暮らして尚、母を愛し、子供達を想っていた父親の部屋でした。

震災のあった2011年はたくさんの虹を見た年でもありました。それも自分の部活の試合の時に虹がかかることが偶然にしてはあまりにも多かったので、父が見てくれているのだと思っていました。新人戦の決勝戦の朝も、大きな虹が架かり私のチームは優勝しました。今でも、虹をみると父のことを想います。

大晦日

2011年から2012年になる大晦日の夜、お風呂で涙が止まらなくなることがありました。理由は、2011年が終わるということはその年に亡くなった父と祖母を置き去りにして年を重ねることになるのではないかというのがあまりにも悲しすぎたからでした。

その日に父の夢をみました。朝方近くになって、私の側にいた父がドアから出て行こうとします。それを私が泣きながら行かないでほしいと止める夢。父は言いました、”もう少しだけここにいる”と。目が覚めると夢の中で泣いていたように泣いていました。

それから日が流れて、父のことを忘れることなど一度もありませんが、父があの世で気楽に過ごせるようにあの大晦日の時のように父にしがみつくことはしまいと決めています。

天道虫

一昨年の命日にお墓参りに1人で向かい、父のお墓の前でいろんなことを話していたら涙が出てきてしまって周りに誰もいなかったので泣いたまま話をしていると、てんとう虫が飛んできて私の周りを飛んだ後に父のお墓にとまってジッと動かなくなり、まるで私の話を聞いてくれているかのようでした。話し終えて、不思議だなと思いながら寺から出ようとした時に、昔おばあちゃんが、てんとう虫は天の道と書いて天道虫と書くからご先祖様かもしれないよと話していたことを急に思い出して、走って父のお墓まで戻るとさっきまでジッと動かなかったてんとう虫はもういなくなっていました。もしかしたら、父が本当に話を聞きに来てくれていたのかもしれません。

イルカ人

昔、イルカだった魂が人間に生まれると、海が好きで海の近くで育つことが多いのに泳げない人が多いと聞いたことがあります。もう泳ぎ尽くしたから今世では泳がなくてもいいからだそうです。

今になって父もそうだったのではと思うのです。海の近くで育ったのにカナヅチで、でも海が大好きでした。

小さい頃に父が買ってくれたオルゴールはイルカのオルゴール、私たち兄弟に買ってくれたネックレスも、お揃いのお財布もイルカがモチーフのもの。そして父はラッセンの描くイルカの絵が大好きで、私たちが生まれる前に母とのハワイ旅行でラッセンの絵を買ってきたほどでした。父がその時に買った絵は"Mother's Love"というイルカの親子が寄り添って泳ぐ絵。子供部屋に飾ってありました。

自分の母と海で亡くなった父はもしかしたら海に帰ったのかなと思うことがよくあります。ラッセンのその絵のように母と寄り添って泳いで戻っていったように思えてしまいます。そして私自身そう思うと少し心が軽くなります。

父へ

父は母との離婚後、家を出て行く前に家族一人一人に手紙を渡しました。

今でもその手紙を読むと涙が出てしまうのですが、その手紙の終わりにこんなことが書いてあります。”結婚するなら日本人がいいな、その時は必ずパパも呼ぶんだよ”と。きっと私が日本から出て行くことを知っていたのだと思います。父は英語が話せなかったから日本人と結婚してほしいと書いたのかな。

でも、もしその時が来てももう父とバージンロードを歩くことはできなくなってしまいました。手紙を初めて読んだ13歳の頃は父を結婚式に呼ぶなんて当たり前と思っていたんだけどな。私は結婚するなら父みたいな人を選ぶような気がします。

その時は姿が見えなくてもいいので来てくれますか?

母は隠しているけれど私は本当は知っています。父が死ぬ前に母に送った最後のメールの内容は、日本に帰って来ている私に会いたいというものでした。もっと早くに気づいていればよかった。自分の生活に一杯一杯になって父の寂しさに気づけなくて、親不孝の娘でごめんね。

本当は毎日会いたくなります。話したくなります。あまり好んで肉を食べなかったのはどうして?私がベジタリアンになったのもやっぱり父譲りなのかなとか。無口でいつも冷静だったけど本当はいつも何を考えていたの?とか。浜崎あゆみの曲どれが一番好きだった?とか。少しだけ大人になった私とだったら小さい頃教えてくれなかった話も教えてくれるかな。今の私を見たら何て言うかな。
しばらくしたら私もそっち側にいくのでその時にいろんな話ができるのかなと密かに楽しみにしています。

”パパが私の父親であること、私が父親似であることが私の自慢です。
私のパパでありがとう。”

これがずっとずっと私が父に伝えたいことです。

こんな恥ずかしい言葉はきっと大事な時にしか言わないのかもしれないけれど、もう私は直接伝えることができそうもありません。なので、今自分の周りにいる大事な人たちに伝えられることをたくさん伝えようと思いながら生きています。


4.14.2020 Rin

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