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64.支倉常長と茂庭綱元、その2

歴史に詳しくない方や、興味のない方にはまばらなお話しで申し訳なく思っておりますが、詳しくはネットで調べていただいてもらうことにして、お話しを進めたいと思います。

前回からの続きですが、綱元が高野山から仙台に戻るタイミングと、常長がルソンから長崎経由で仙台まで戻るタイミングが重なっていることは、偶然とは思えません。なぜなら、綱元は仙台城の城代だからです。つまり、政宗公が参勤交代で江戸に行っている時は、綱元が仙台の責任者なのです。その時には、綱元の息子の良元が奉行として指揮していたと思いますので、城下の問題に関しては任せていた事でしょう。

そして、横澤将監が迎えに行って支倉常長を仙台まで連れて帰ったのですが、その前に、仙台から高野山へと行った綱元が長崎とそれ程簡単に連絡できたのだろうかという疑問ですが、豊臣秀吉の時代には、伊達家は京都の伏見に2000人規模の伊達町を築いて住んでいたことと、秀吉の朝鮮出兵の際に綱元は、大分の名護屋城下に住んでいたので、九州までの道のりは熟知していました。

ですから、横澤将監が迎えに行った時期から計算して、長崎と連絡がとれる、仙台と長崎の中間になる高野山へと綱元が行ったのは、偶然とは考えにくいです。ましてや、四国には、宇和島伊達家がありましたので、そちらの人間を使えば、仙台から誰かを使わす必要がありません。当然、長崎には伊達家の人間が商人となって潜んでいただろうことは、政宗公ならそのような手段を講じていたことでしょう。

綱元は密に連絡をとりながら、ルソンの支倉常長をどのタイミングで帰国させるか考え、指示を出していたことと思われます。綱元は政宗公に厚い信任を得ていましたので、それらの行動は綱元の一任で行っていたはずです。いちいち、政宗公に指示を仰いでいれば、時間的に間に合わない場合もありますし、連絡を怪しまれることもあります。そのため、政宗公は綱元に一任したと思われます。

そこまで言い切れるのは、実は仙台に六芒星🔯を発見した、私の研究のベースなのですが、ある日政宗公がある女性に降りてきた時に、「お前が隠せと言ったじゃないか」と私に向かって言ったのです。もちろん、私の記憶にはありませんが、隠した本人が発見したという次第です。
そこまで言える立場だったのです。

こうして、支倉常長は仙台まで帰ってきました。それもたくさんのお土産を持ってきたのです。幕府では、キリシタンの御禁制の品を持つことは禁止していました。そのため、常長が持ってきた品々は城下の赤坂という所で焼き払ったと記録にあります。

しかし、現在も仙台市博物館には、多くの支倉常長がローマから持ち帰った品々が展示されております。

そして、支倉常長は帰仙後2年目にして亡くなっております。

まあ、それは史料の記録によるもので、嘘です。幕府のキリシタン取り締まりが厳しくなってきたため、死んだことにしたのです。はじめは、ころびと言って改宗することを進めたでしょうが、スペインで国王を動かして洗礼までした常長が簡単に嘘でもころびなどするわけがありません。七年にも渡る苦境を乗り越えて帰国する程の人間ですから、並大抵の精神力の強さではありません。だから、その意志の強固さを見込んで、綱元が常長を選んだものと思われます。

さて、支倉常長が死んだことになった後のことは次回お話しいたします。

今回も読んで下さりありがとうございました。また次回お会いいたします。
感謝申し上げます。

今日は、12月31日の大晦日です。
皆さま、良いお年をお迎えください。

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