小説:大人になれば僕たちは【4101文字】
修羅場だ、と思った。
この前友達が、カップルの喧嘩を見たって。女の人がグラスの水を男の人にかけてビンタして、男の人は怒って女の人の髪の毛をつかんだ。それを友達は自慢げに「修羅場だったよ」って言った。
それが修羅場なら、今僕が体験しているのは修羅場だし、僕の日常は毎日修羅場だったんだ、と思った。
僕は今、妹のカヨと一緒にトイレに隠れて修羅場の音を聞いている。夕飯を食べようとしたときに、お母さんが小言を言って、お父さんが怒ってテーブルをひっくり返した。鶏のから揚げと味噌汁とごはんが、床にまき散らされた。こうなったら、怒鳴り合いと物の投げ合いと、殴る蹴るが続くから、隠れていないと危ない。
「あんたがまともに働かないからでしょ!」
「うるせえ! お前に何がわかる!」
僕は妹の耳をふさぐ。五歳のカヨには、修羅場は怖いだろう。僕だって聞きたくない。でもあれは、僕が「やめて」と言ったところで止まらないし、下手すると殴られて痛い思いをする。僕は「台風」や「地震」と同じで、自分の力では止められないものだと理解した。どうにか巻き込まれない方法を考えるしかない。そして、カヨを守るのは僕だけだ。
お父さんが何か叫んで、大きな音をたててドアを閉めて出て行った。あんな乱暴な閉め方をしたら、古いアパートだから壊れてしまうんじゃないかと心配になる。でも、お父さんが出て行ったから修羅場は一時休戦。ここからは急がないといけない。カヨを連れて靴を履いて、静かに外に出る。このタイミングで出ないと、お母さんの金切り声を延々聞くことになるし、ぐちゃぐちゃの夕飯の片付けを手伝うはめになる。それが嫌で、僕はいつもこのタイミングで外に逃げるのだ。
外に出ると涼しくて、カヨに上着を着せれば良かった、と思った。でも、家に戻るには三十分待ったほうが良い。お母さんが泣いているか怒っているかのどちらかで、三十分を過ぎると今度は「どこ行ってたの!」と怒られる。大人の、ちょうど良いタイミングって本当に難しい。
僕たちは、近所の公園へ行く。修羅場のあとはいつもここ。桜の季節が過ぎて、昼間より人の少ない公園で、ブランコに乗ったり、ベンチでぼーっとしたりして過ごす。今日は、ブランコで遊んでいる子供たちがいたから、ベンチに座って空を眺めた。オレンジ色と水色。絵の具を混ぜたみたいな、きれいな空。雲がうすく伸びてウサギみたい。
「カヨ、あれウサギに見えない?」
「どれ?」
「ほら、あれ」
「ほんとだ」
ふはって笑うカヨを見て、安心すると同時に複雑な気持ちになる。修羅場を見たあとでも、カヨは雲を眺めて笑える。修羅場に慣れてしまっている。あんなに怖いことなのに、僕もそうだけれど、あれが普通の毎日になっている。慣れるって、なんだか怖いね。
「おう、お前ら、腹減ってんだろ」
急に話しかけられて驚いた。ふりむくと、背の高い男の人がいた。髪はぼさぼさで、髭も伸びていて、少しお父さんに似ている。でも、お父さんより若い。
「おじさん誰」
僕は思い切り警戒した。知らない人に話しかけられたら逃げなさい。学校で嫌というほど聞かされている。
「おじさん……か」
おじさんは苦笑いしながら、頭を掻く。
「誰でもいいだろ。腹減ってねーの? 金やるからコンビニで何か買ってこいよ」
そう言っておじさんは千円札を出してきた。怪しすぎる。
「カヨ、行こう」
まだ十分しかたっていなかったけれど、怪しいおじさんと話しているくらいなら、お母さんの金切り声を聞いているほうがマシだ。何より、カヨが危険にさらされるかもしれない。
「今帰ったって、まだお母ちゃん怒ってるだろ。夕飯、食ってないだろ?」
なんで知っている? 僕はおじさんをじっと見た。
「お兄ちゃん、カヨ、お腹空いた」
カヨが心細い声を出す。僕だってお腹が空いている。このまま帰っても、修羅場の日はだいたい朝まで何も食べられない。
「まあ今日だけは、とりあえず何か食えよ」
僕は受け取らない。
「わかった。じゃ、これでどうだ?」
おじさんは飲んでいた缶コーヒーの缶を差し出す。
「これを、あそこのゴミ箱に捨ててくれよ。それは仕事だ。その仕事の給料を払う。それでどうだ?」
変な人だと思ったけれど、迷った末、僕はその話にのった。正直、空腹に負けてしまったのだ。空き缶を受け取り、ゴミ箱に捨てる。カランと乾いた音が響く。ブランコで遊んでいた子供たちはいなくなっていた。
「ほら、これ給料だ。コンビニで何か買って来い」
千円札を片手でヒラヒラと揺らしている。
「本当にいいんですか?」
「ああ、給料だからな」
「あ、ありがとうございます」
僕は恐る恐るお金を受け取る。おじさんは、シッシッと僕らを野良猫でも払うみたいにする。
「ほら行った行った」
僕はカヨの手を握ってすぐそこのコンビニへ走った。おにぎり二個と、ホットコーナーのから揚げを買う。
お釣りを返そうと公園へ戻ると、おじさんはもういなかった。
「なんだったんだろう」
よくわからなかったけれど、カヨと二人でベンチに座って、おにぎりとから揚げを食べた。お金を持っていることがお母さんに知れたら変に思われるから、公園の草むらに穴を掘って、お金を埋めた。
三日間、お父さんは帰ってこなかった。家にいれば修羅場になるが、いなければお母さんは機嫌が悪く、一人でずっと文句を言っている。
「どうせ女のところでしょ」
「一生帰ってこなければいいのに」
お父さんは、いてもいなくても、お母さんにとって厄介な存在らしい。お父さんが家にいないと、お母さんは何もしない。僕とカヨは散らかった台所からカップラーメンを探して出し、空腹をしのぐ。
お父さんが帰ってきても平和な日々は続かない。三日ともたずにまた修羅場。怒鳴りあって、物を投げ合う。いつもの修羅場。
僕は、カヨを連れて公園へ行く。草むらから埋めたお金を掘り起こして、コンビニでおにぎりを買って食べた。
「うまいか?」
話しかけられた声が、僕はおじさんだとすぐにわかった。案の定、少し離れたところで立ったまま煙草を吸っている。
「この前はありがとうございました。お釣り返そうと思ったのに、今日使っちゃいました」
僕は正直に話した。
「いいんだ。お前にやった給料なんだから」
おじさんは煙草を捨てて踏みつぶすと、ゆっくりベンチに近付いてきた。
「うまいか?」
おじさんはカヨに話しかける。
「うん」
カヨの返事に、目じりにシワを寄せておじさんは笑った。悪い人じゃないのかもしれない。なんとなく、僕はそう思った。
おじさんは僕たちの隣に腰掛けて、また煙草を咥えた。
「おじさん何歳?」
「俺? 二十八」
「じゃ、大人でしょ?」
「ああ、そうだな」
「大人って、楽しい?」
「うーん。楽しくないときもあるけど、少なくとも、子供よりはマシだな」
そう聞いて、僕はほっとした。大人が子供よりつまらなかったら、僕は何のために大人になるのかわからなくなってしまう。
「子供って、いろいろ大変だろ? 親がいて、先生がいて。大人も大変なんだよ。でも、大人は自由だ。大人にあって子供にないもの。それは、自由だよ」
そう言っておじさんはちょっと笑った。
「だから、お前ら、今大変でも、大人になれば大丈夫なことも増えるからな。大人の方がずっとマシだから。そのことは忘れるな」
おじさんは煙草の煙をぷはーっと吐くと、急に真面目な声で続けた。
「それから、お前、妹だけは大切にしろよ」
「え? 僕?」
「そうだ。今、大切にしているよな? それを、今後もずっと、ずっと続けるんだ。いいな? 約束だ」
おじさんが真剣な顔で言うから、僕はちょっと怖くなって頷いた。
「うん。わかった」
「おお、頼んだぞ」
そう言うと、おじさんはまた煙草をポイ捨てして、どこかへ行ってしまった。
夏休みになって、僕は友達と肝試しの約束をしていた。カヨが、着いて行きたいと駄々をこねる。
「だめだよ、今日は男だけの肝試しなんだから」
そう言ってカヨの手を振りほどこうとしたとき、ふと脳裏に浮かぶ言葉。
「妹だけは大切にしろ」
あのおじさんだ。あれから一度も会っていないけれど、今日に限って思い出した。僕はカヨを肝試しに連れて行った。友達からは少し文句を言われたけれど、今日だけは手を振り払ってはいけない気がした。
家に帰ろうとすると、風向きが変わって急に焦げたような匂い。見ると、家のほうから煙があがっていた。カヨと手をつないで走って帰る。そこで見たのは、野次馬と消防車と、ごうごうと燃え盛るアパートだった。
「危ないから下がって!」
大声で叫んでいる消防の人に走り寄って聞いた。
「お父さんとお母さんは!」
「え、君たちこの家の子なの?!」
「そうです!」
僕たちは警察の人に保護された。お父さんとお母さんは、助け出されて病院に運ばれたらしい。僕は警察署の部屋で説明を受けながら、妹の手をぎゅっと握った。
あれから二十年。僕は、あのときのおじさんと同じ年になった。
髪を整えながら鏡にうつる自分を眺める。おじさんと僕は、全然似ていない。
あの火事の日、もしかしたらおじさんは、未来から来た僕だったのかもしれないと思った。そんな不思議なことがあるはずがない。そう思う一方で、僕がカヨを救うために、未来から来たのだと思った。
でも、大人になった僕は、全然おじさんに似ていなかった。
「お兄ちゃん、どお?」
カヨが一周まわってドレスを見せる。
「きれいだよ」
今日はカヨの結婚式。火事から少しして死んでしまった父の遺影を、車椅子の母が持っている。母は火事の後遺症で歩けなくなってしまった。それからずっと施設で過ごし、今日は久しぶりの外出だ。
おじさんは、大人のほうがマシだと言っていたけれど、両親を見ていると、どうなのかよくわからなかった。でも、僕とカヨは、少なくとも、あの日よりずっと自由だ。
妹を助けられなかった世界の僕? と思うこともあるけれど、真実はいっそ、どうでもいい気がした。
【おわり】
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