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ギターは生き物の死体でできている

もちろん今日では金属や樹脂、塗料などの人工の素材がギターに使用されることは普通である。
けれど「スーホの白い馬」に出てくる馬頭琴のように、それら人工素材が現れる以前のギターはさまざまの自然由来、いやむしろ生物由来の素材を用いて制作されてきたのであり、現在でもギターの大部分はそのような「生き物の死体」によって構成されていると言えるだろう。
たとえば骨や象牙がナット、サドルに。
貝殻は装飾に。
皮や筋は接着剤の膠として。
弦も元々は腸(ガット)だし、カイガラムシの分泌物はセラック(shellac)という塗料として使用されてきた。
そして何よりも木材がその構成の大部分を占めているわけである。

「生き物の死体」と言ってもいいし「自然からの賜物」と言ってもいいわけだけれど、肝心なことは、人の意図ではなくそのような生き物によって生み出された素材でしか生みだせない何かがあるということだと思う。
アコースティックなギターは、弦の振動を木によって増幅し音色へと変える。そこには人が作り出した素材に取って代わることのできない音色があり、外観や手触りがある。
様々な素材が人工的な素材に変わりうるし、そしてそれが自然素材には真似することのできない利益をもたらすことも多々ある。それでも楽器というものから、そしてギターという楽器から自然の素材が使われなくなる日は来ないだろう。
自然/生物の素材には意識が伴わない。人工的であるとは、そこに人間の意識や意図が伴っているということである。生物は「ただ生きる」という活動によって自身の身体を作り出すのであって、そこに自分で身体を形成しようなどという意図はない。
意図がないからこそ生まれる素材というものがあり、人間はそのようなものを作り出そうと意図することはできない。意図を含まないようにと意図することはできないからである。
人間が意識して作り出すことのできない生物の生命活動の結果としての素材だからこそ、人はそれをこれからもずっと使い続けるだろう。

あるいは、たとえば食べ物を100パーセント人工的なものに置き換えたいと心から願う人が恐らくいないのと同じように、楽器は「生き物の死体」を糧とすることから離れることができないだろう。
それは単にそのような素材を人間の力では作ることが不可能だからという実際的な理由のみによるものではない。
そこには、人間もまた自然の一部であり、だからこそ自身がそこから完全に離れ去ることに対するある種の「居心地悪さ」のようなものがあるからなのではと感じる。

食事の前に「いただきます」と口にする、その底に流れる気持ちと似通ったものを、楽器を作る人間、そしてそれを弾く人、聴く人もまた、今後もおぼろげながら感じ続けていくのだろうと思う。


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