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美しい体験

私はこの「美しい」という言葉を、人間の尊厳を最も肯定する言葉だとはるか昔から信じ続けている。

例えば、Twitterで自撮り画像をあげているインフルエンサー(男女どちらかは問わない)に対してリプを送るとき、
「かわいいですね!」
だとただのナンパでは、と思ってしまう。こういう時に
「美しい。。。」
と悶えるようなリプを送ることで、絶妙なキモさを回避しつつも、あなたは私の目の保養になってるんですよ!ということを暗に伝えることができる。と私は勝手に思っている。

ふざけてしまったが、美しいという言葉は、何も人間だけを修飾する言葉ではない。例えば、美術品なんてのは名詞の中に「美」という字が含まれているくらいだ。美術品や芸術品と称されるもの、はたまたそういう風に呼称されなくてもそれに相当すると考えられるものは、それを我々が見たり、聞いたりすることによって大きな刺激を我々に与えてくれる。この体験は他の何でも代用することは決してできないし、人間としての「最低限の尊厳」を保護するために必要な教養であると考える。そのように考えると、喫茶店というのも大きな芸術品であり、そこで培われる刺激というのは大変貴重なものではなかろうか。

私はまだ18歳という若年ながらも、数年前から神保町に通っている。めっぽう、古本の理学書をとても安い値段で買い漁るためであり、誇れる趣味ではない。しかし、世間一般論的に神保町は「理学書を買い漁る場所」ではなく、昭和以前から続く古き良き古本街として、その風情を楽しみ、読書を楽しみ、美味しい珈琲を飲むところである。そんな優雅なひとときなんぞ私には似合わないと思っていた矢先、先日神保町の昭和レトロな喫茶店に入ることになったので紹介したい。しかもハシゴ。

ただ、「入ることになった」と云っても別に不可抗力ではない。1週間以上前から行きたい喫茶店のTwitterをフォローして目星をつけ、雰囲気を頭の中で想像していた。なんなら入ったこともないはずの喫茶店の夢まで見てしまった。自分が思っているより圧倒的に、私の脳はそれを楽しみにしていたようだった。1店目は普段「理学書を買い漁る」ための、行きつけの書店の又隣にあって、最近改装移転したとのことだった。(移転といっても数十メートルらしく、それを「移転」と言い切ってしまうところに、なぜか大きな親近感を覚えた。)

入るためにはドアを開けなければいけない。いや、当然と言えばその通りなんですが、それがまあ重いこと。重量とか、私の筋力がないとかそういう話を抜きにしても、この扉はすごく重かった。ここを開けた先は違う世界なんだ、ということを認識しながら自分で足を踏み入れる感覚。いいから開けなよ、と同伴人に催促されたように感じたその瞬間には、「いらっしゃいませ〜お二人様ですか?」と丁寧な口調で言い切られてしまっていた。店内には、70年代のアメリカのジャズ(と勝手にいってみたが実際はよくわからないとにかく美しい音楽)が奏でられていた。しかもレコード!これはすごい。さらに、それをカウンターのバカでかいスピーカーから超小音量で再生している。レコードなんて最近はほとんど見ないし、触れてもない。思わずハッと手を出しそうになったが、ここは自分の心にマスキングテープを貼るように、グッと堪えた。でもマスキングテープだからきっとすぐに剥がれるんだろうなあとか、どうでもいいことを考えながら店内をきょろきょろと見回す。

神保町ということもあって店内には多くの本もあれば、数年もののワインやウイスキー、ビールやスミノフなど、多くのお酒も陳列されていた。私から見て左奥にはコンセント完備のカウンター席がずらりと並んでいて、一人でふらっと寄るのもありだなと思って………え、コンセント!?、と思わず映画のようなリアクションをしてしまったじゃないか。そのくらい驚いた。今ドキの「昭和レトロ」には「コンセント付きのカウンター」が包含されるのか。あれはスターバックスやドトールなどのチェーンがやるやつではないのか、と驚きつつ、別にチェーン以外の昭和レトロがコンセントをつけてもいいじゃないか、と自問自答して解決する。こんなお洒落な喫茶店で充電されるスマートフォンはきっと幸せ者で、そこを流れる電流は類を見ない心地よさを味わいながら充電されていくんだろうなと、理工学系ならではのキモい妄想をする。

注文はもちろんメニューの一番上にある「ブレンドコーヒー」と、小腹が空いていたので「シナモントースト」をそれぞれ1つ頼んだ。料理が提供されるのを待つ間というのは、非常に退屈で、特にやることもなくて、でもだらだらと同伴人とおしゃべりするのが意外と楽しくて、という絶妙なひとときである。こういうひとときを大切にするくらいの時間的余裕は保っていきたいと切に願うばかりだが、今回ばかりはそういかなかった。何しろ眼球から直接注がれる情報量の多さに、私の脳内はヒートアップしていよいよメモリ不足でフリーズしそうだった。そのくらい、店内のさまざまな物品から受ける刺激は強く、その一つ一つが私の海馬の引き出しをノックして、爪痕を残していった。いま、私は四感でこの喫茶店を感じ取っている。視覚はもちろん、珈琲を淹れているであろう心地よい匂いから感じる嗅覚、年季の入った木のテーブルから感じる触覚、店内を駆け巡る音楽から感じる聴覚。これで4つ。最後を補完するためのシナモントーストとブレンドコーヒーがテーブルに置かれた時点で私の脳はキャパオーバーを迎えた。

美味しい。シナモンが効いてて風味も良い。今完全に4方向からガードを固められているが、その状況を抜きにしてもこれは最高。恥ずかしながら、珈琲好きを公言しているにもかかわらず私は猫舌であるため、淹れたての珈琲をふーふーと冷まして、5分ほどしてから飲むのが癖になっている。やっと冷めてきた珈琲にそっと口をつける。なんだこの感覚は。身体をほと走るような、爽やかな感覚。まずはとにかく舌触りが良い。これは珈琲というよりもはや絹。きめ細やかで、ふわっとした感覚が私の全身を包んでいく。ちなみにこれは全て舌の先端の話。そのままスルッと喉の奥に流れてきた珈琲成分は、喉のあらゆる部分に刺激を与えながら奥底へと流れていく。そして珈琲成分が全て流れ落ちた後に、ふわっとした香りが喉から込み上げてくる。これがいわゆる「後味」というものか、と我ながらその自己解釈に感動する。そしてここで初めて声に出る。「あぁ…美味しい…」

そして私は天井を見上げる。ちなみにこの動作は以前ドラマで木村拓哉がシェフ役でやっていたポーズ。別に意識はしていないんだけど、当時ふざけてやっていたのがそのまま癖になってしまった。でも特段変な格好ではないからそのまま放置している。そんなこんなで体中に感動を覚えた私は、店のあらゆるところを再度目に焼き付けてから、同伴人の分も併せてお会計を済ます。美しい体験をありがとう。

そのあと、大量の理学書を抱えて2店目に入るという話はまた今度。


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