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「Scents of Heaven」 ~ 今ここの記

「三渓園、行ってみたいですね」
「それならぜひ「観蓮会」に。早朝のハスの開花は本当に見事、こんなに香り高い花だったのかと驚きますよ」

──真夏の日本庭園を思い浮かべながら、ワインバーのカウンターで今年最後のボトルを空ける。店に年末の挨拶をと半年ぶりに自粛を押してやって来たのだ。せめてもう一本頼んで店主を喜ばせたいところだが、22時の閉店時間が切ない。

三渓園は以前に一度行ったことがある。本牧にある広大な庭園には蓮で知られる大池があり、あるとき横浜に住む友人から「早朝観蓮会」に誘われた。東京に住む私ともう一人の友人は、朝6時の開園目指してはるばる出かけてゆく酔狂も面白く、二つ返事で誘いに乗った。

物見遊山のつもりだったのが、薄明が残るなか浮かび上がる子供の頭ほどもある薄桃色の花々。思いのほか背の高いその群れに迎え入れられた驚きに、思わずクリシェまみれの「天国」と呟いていた。そのとき空気を満たしていた、私の記憶のどこにも無かった香り。A scent of lotus.  A scent of Heaven.  私は蓮の葉末を渡るように、確かに地面から10センチほど上を歩いていた。あの日忘れられない印象を残しながら記憶が朧げな香りをもう一度確かめたく、私はワイングラス越しの友人を誘う。

「来年の夏、行けたらぜひ!」

──そこからが私の「妄想旅行」の始まり。カレンダーをチェックし、始発電車の時間を調べ、記憶を頼りに園内のコースと見所を辿る。そういえば早朝というのに茶店まで開けて、日本人のお花見に欠かせないお団子やら茶粥まで供する中々行き届いた催しだった。

あの日は友人の名ガイドで、庭園と蓮の花を堪能した後は中華街に出て優雅な中国ランチを楽しんだもの。そして横浜港の遊歩道を散歩し、港を見下ろす穴場スポットでお茶を飲み……まるで海外旅行のような、オリエンタルでエキゾチックな一日が一コマ一コマ鮮やかに思い出される。

そんな愉しみを今夜の友人にも贈りたく、私なりのプランを膨らませてゆく。まずはとにかく早起きをしてもっとも香り高い開花のひと時を堪能し、「天国の香り」を確かめよう。朝露が残るしっとりした空気だけに許される蓮香のたゆたい。陽が高くなってしまえば香気はたちまち天上に吸い込まれてしまうのだ。

さてその後はやはり中華街、こんな時こそ朝からやっているお粥の名店を目指したい。花の驚きを各々語りながらシンプルな中華粥で空腹を満たす。腹ごなしに山手を散歩したら、午後は早めに生ビールといきたいところ。野毛の飲み屋街、さて開いていそうなお店は……?

──そこで私の妄想はフッと止まる。 来年の夏その場所はどんな景色になっているのだろう?

観蓮の7月下旬~8月初旬といえば、予定ならオリンピックの期間。このあいだまで開催の意気込みを伝えていたが、今となっては覚束ない。来年のその頃、私たちの日常は、そして街の様子はどうなっているのだろうか?能天気な真夏の妄想にソワソワしている自分を恥じつつ、実は9.11や3.11の朝もそうやってあさってのことを思っては、ごく当たり前の日々を小さな楽しみと共に生きていたのだと考え直す。

天国の香りか知るよしも無いが、穏やかに夢見心地な匂いに浮かれて地上10センチをふわふわ歩いた日。あれはきっと友人達との楽しかった夏の一日の記憶のないまぜなのだろう。A scent of lotus.  Scents of Heaven.  蓮の花弁に刻まれた愉悦の時間。

──私は気を取り直して妄想を続ける。 こうして楽しかった記憶の花びらを丁寧に集め、誰かに贈ろうと企んでいるこの時間こそが天国。明日があっても、もしかして同じような明日がそこには無くても、日常を楽しむ小さな情熱と明日へのお愉しみがあれば、私はきっとお菓子を食べるように、ワインを味わうように生きていける。

【連載】余白の匂い
香りを「聞く」と言い慣わす”香道”の世界に迷い込んで十余年。
日々漂う匂いの体験と思いの切れ端を綴る「はなで聞くはなし」
前回の記事:「ホタルノヒカリ」 〜 想いに添えて

【著者】Ochi-kochi
抜けの良い空間と、静かにそこにある匂いを愉しむ生活者。Photoギャラリーはじめました。「道草 Elegantly Simple」

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