見出し画像

カウンセリング(環状線)

がたんごとんと、電車は走っている。地方都市の環状線を、飽きることなく走り続けている。車両には男と女が、ボックス席で向かい合いながら座っている。
男は、窓の外を流れる景色を。
女は、窓の外から入り込む夕日に照らされた、男の横顔を。
電車のなかには他に乗客もおらず、この2人だけが、同じボックス席に向かい合って座っている。
窓の外には無数の鉄塔が並んでいる。オレンジ色の光に照らされた無機質なそれらは、それぞれ電線で繋がっていて、男は視線でその電線をなぞっている。
「119、120、1、2、3、4……」
小さくこぼれる声が、向かい合う女の耳に届く。1に戻ったそのときに、女は電車がまた一周したのだ、と気付いた。
仕事終わりの疲れた女が、異様に空いているこの電車に乗り込んで、がら空きである状況に満足し、ボックス席に腰を掛けてから、5時間が経った。
あくまで、感覚としての時間というだけで、女の手首にある時計の針は一切の動きを見せていない。
最初の1時間は、女一人だった。窓の外の世界などには目もくれず、ただ向かい側の座席の臙脂色の背もたれにできた、さらに臙脂色を濃くさせるようなシミを凝視していた。
窓の外から入り込む光は、そのときから変わっていない。
暖かくもなく、寒くもない、春の始まり。生命が騒ぎ出す直前の静けさを湛えた、そんな季節。冬と春の狭間。
そんな季節に、迷い込む。
 
頭の中の文字が「1時間目」から「2時間目」に変わったのと同時に、男は乗り込んできた。やけに身長の高い、針金のような男。遠目で見たら、頭の上から糸で操られている針金人形かと見まがうほどの細さ。
真っ白なスーツを身に纏った、真っ白な肌をした、男。唇だけ異様に赤く光っていることから、化粧でもしているのかもしれない。
濃臙脂のシミを凝視していた女の視線を遮り、男は腰をかけた。
女以外誰も乗ってこない電車。
女以外誰も乗っていない電車。
そんな電車で、わざわざ女の向かいに座るその男は、女に一瞥もくれずに、窓の外を眺め始めた。
そして女は、その男の横顔を眺め始めた。最初は電車の音にまぎれて聴こえていなかったが、男の口が動いていることに気付いた。
注意深く耳をすますと、低い声で数字をかぞえていた。窓の外を眺めながら、ひたすらに、呪詛ように繰り返される数字。
「3時間目」から「4時間目」に変わる瞬間、男の言葉も「120」から「1」に戻ることに気付いた。
そして女は、男が外を流れる鉄塔の数をかぞえていることに気付き、そしてそれが一周するたびに時間が増えていくことに気付いた。
途中駅もなく、止まることのない電車の中で、外の景色を眺めながら、単調な電車の音に紛れるように繰り返されるその周回は、女にとって心地の良いものだった。
女は男の横顔から目を背けることなく、耳から入り込む数字と、単調に動く男の口もとを、ただ眺めるだけ。
そして頭に浮かんでいる文字は「6時間目」。
女は知っている。この「6時間目」が終われば、止まることを知らなかった電車は駅に止まり、男は降りる。そして、いつものようにまばらに人が乗ってくるのだ。
そしてその予測通り、「115、116、117、118、119、120」と男が粒や歌直後に、電車は止まった。駅に、停まった。
男は来たときと同じように、女には一瞥もくれず、かくかくとした動きで、電車を降りる。ただし、女は電車を降りる男の姿を見ていない。女も女で、同様に、向かい側の椅子についた濃臙脂のシミを、見知らぬ中年女性が子供を連れて座るまで、見つめ続けていた。

この記事が参加している募集

眠れない夜に

励みを頂ければ……幸い至極です……