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好みとコーヒー 「美味しいコーヒーって何だ?」読後感#2

手動ミルをくるくると回す。できるだけ均等に挽けるよう、回転速度は変えない。ネルフィルターに挽きたての粉を落として均す。ポットの温度は90度。まずは全体を湯に通し、若干蒸らす。アロマの香りを楽しみ、少しずつ、少しずつ湯を注ぎ、液体を抽出する。いつも使っている備前のカップに注ぎ、一口目を楽しむ。敏感なうちの舌触りや風味を感じる毎朝の楽しみは、コーヒーに限る。

Youtubeのコーヒー動画を見たり、Amazonで器具を買ったり、オンラインショップで珈琲豆を買ったり、見よう見まねでコーヒーライフを始めたところ、はまってしまった。昔は気にせず飲んでいたインスタントコーヒーも、今は渋い苦みに耐えられず飲めなくなってしまった、と書くと、一端の愛好家を気取れるが、実はそんなに舌が肥えているわけでもなく、ただ格好をつけたいだけなのである。中国に、食を本当に知るようになるには(舌がおいしいものがわかるようになるには)5年かかる、ということわざがあると聞いたことがある。それほど、味覚を洗練させることは難しいのだろう。少しコーヒーを自分で淹れるようになったからと言って、味がわかるなどとはおこがましい。だからと言ってあきらめてしまってはいけない。せっかく器具がそろって部屋でコーヒーが淹れられるようになると、次はおいしいコーヒーを求めるようになるものだ。そこで手に取ったのがこのオオヤミノル著「美味しいコーヒーって何だ?」だ。

オオヤミノル氏は焙煎家だ。仕入れた生豆(なままめ)を焙煎し、販売する。コーヒーの味の決め手を大きく分けると、①コーヒー豆そのものの品質、②焙煎、③抽出の3つだ。これは①から③の順に味への関与度合いが高い。つまり、いくら③で頑張っておいしくしようとしても、①のコーヒーの品質が悪ければおいしいものは作りにくい。多くの人が自宅でできるのは③だろう。今回の著者や本に登場する対談者は皆、①コーヒー豆そのものの品質や②焙煎の話をする。そこは、初めて読む読者は置いて行かれるほどに、専門的な話をしているので、ここではあまり細かな話には触れない。それは細かな話に触れなくても美味しいコーヒーがわかるということではなく、私自身の理解度が足りないから触れないという個人的な問題だ。専門的な用語も設備も分からないにもかかわらず、オオヤミノル氏と諸氏の対談を読み感じた緊張感からはっきりと感じたのは、彼らは“おいしいコーヒー”の共通認識を持っていることだ。

例えば、人は好みが違うという。喫茶店で、あるカップルが2つのコーヒーを出されたとしよう。男の方は苦いコーヒーの方は好きで、酸味の強いコーヒーは嫌いだという。女の方は、その逆で苦いコーヒーは嫌いで、酸味の強いコーヒーは好きだという。人はこれを好みの違いだという。本書でも苦い・酸味の話はされているが、ただ苦いからとか、ただ酸っぱいからとかで好みを分けない。その苦いの中にも美味しい味を突き詰め、酸っぱい中にも美味しい味を突き詰める。突き詰めていった先には、共通の“おいしいコーヒー”があるのだ。美味しい苦いコーヒーと美味しい酸味の強いコーヒーを比べて好みを出さない。美味しい苦いコーヒーの中に、その人の個性の好みでよりおいしさを見分けられるから、苦いコーヒーを好むと言っている。私はこのことに非常に関心した。いくつか異論もあるだろうが、おいしさは個人の妄想ではなく、例えば能にカタがあるように“おいしいコーヒー”は存在しているはずである。人間には変えられようもない、自然なものだ。そして、好みというのは自分の中にある個性、これは自分では変えられようもない自分の中の自然ともいえるようなものを突き詰めていく先にあるのだと思う。

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