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『みなに幸あれ』を観ました。

 おすすめですか?と訊かれたなら決しておすすめとは言いません。

 ホラーが好きなんでけど見ておくべきでしょうか?と訊かれたなら私に訊かないで決めてくれと思います。

 では、駄作だったのですか?と訊かれたなら。

 そんなことはない。これまでのどのB級ホラーをも凌駕する記憶に残る一作だった、ような気がする、と私は答えることでしょう。

 三連休や盆休み、世間が帰省ラッシュの中、私も例に漏れず実家に帰りました。家族が集まるとホラー映画でも観るかぁとなるのが我が家です。
 過去には『パラノーマルアクティビティ』の一気見や文句が止まらない『呪詛』鑑賞、やはり名作『オーメン』などサブスク様様な鑑賞会が行われてきました。

 ジャパニーズホラーは入り込めずに冷めてしまうものも多く、物語でしっかり楽しませてくれる『残穢』ぐらいしか好きだなと思える作品が今まではなかった。

 今回『みなに幸あれ』を選んだ理由は主演が古川琴音さんだったからに尽きる。作品自体への期待値は低め。母も私も古川琴音さんが好きなのだ。あとはまあ、目から血が出てる予告がいい感じだったから。

 見終わって最初に、弟と顔を合わせてこう言い合った。

 「この映画、俺たちが観るには新しすぎたんじゃないか???」

 まあ、新しすぎるということは実際ないのだが、映画の方がずっと先を歩いていて後から私たちが「もうちょっとで何か掴めそう」と一生懸命咀嚼する感じ。

 YouTubeの考察動画では「ジャパニーズホラーの新たな夜明けを感じた」と表現されている方がいて、そう言われるとたしかに夜明けといえば夜明けなのかもしれない。

新しいホラーのかたち

 日本でホラーを作るにあたって本作は「幽霊」や「怨霊」、「怪談」の類をばっさりと切り捨てたところが凄まじかった。もはやかっこいい。

 海外作品だと悪魔信仰が絡んでくるホラー作品は多い。前述した『パラノーマルアクティビティ』はガッツリそのジャンルだ。この悪魔とやらはなかなか日本の作品には馴染んでくれない。
 台湾史上最恐ホラー『呪詛』ではリアリティを追求してかその辺りを邪神に上手く当て込んでいる。

 そしてこの『みなに幸あれ』。

 お化けは一体も出てこない。花子さん無し。貞子無し。伽椰子無し。俊雄ももちろん無し。
 死者の怒りも、恨みも、興醒めするCGも無し。

 でも、ずっと不気味で、ずっと怖い。

 あるのはたった一つ、恐ろしい〝思想〟だけ。

 だから、ホラー映画のお決まりのアレがない。
 ほら、冒頭とかでよくある、主人公の身に少し奇妙なことが起こって、身近な人がおかしな行動をし始めて、次の瞬間ハッと気がつく。いつも通りの景色。今のは現実? 夢? なんだったの……? みたいなやつ。アレが一切ない。

 小出しにされる奇妙な演出、主人公が泊まりにきている家で起こる祖父母の不気味な行動。その全てが本当に彼女の身に起こっていて、そのまま進行していく。え、今のなんだったの? がただ不気味なまま進んでいく怖さがある。人によってはそのまま置いていかれて意味がわかんない、つまらん映画、と観るのをやめてしまうかもしれない。

 それは全て、この映画が幽霊や怨霊なんていう不確かな恐怖でなく現実味のある日本のホラーを描こうとしているからだ。

私の幸せは誰かの不幸で成り立っている

 ここからはネタバレと感じる人がいるかもしれませんのでお気をつけあそばせ。

 この映画の最重要ポイントは「私の幸せは誰かの不幸の上に成り立っている」という思想。
 映画冒頭はもっと因習村的な秘密が隠されているのかと思っていましたが、浅はかでした。

 もっと大規模に、宗教なんかよりも遥かに常識的に、おそらく当たり前のようにその世界を覆っている信仰。例えるなら、誰かに何かしてもらったらありがとうを言うとか、ご飯を食べる前にいただきますを言うとか。

 この世界の幸せの定量は決まっているから、自分たちが幸せに生きていくには一家に一人不幸せな生贄を作らなければならない、とか。

 古川琴音さん演じる主人公はそんな当たり前の世界のルールをちっとも知らずにある程度の年齢(劇中では看護学生)になってしまった女の子です。

 だから葛藤します。おかしいよ。そんなの間違ってる。そんな非人道的で倫理に反したことしていいわけがない。そして一生懸命行動する。だけど上手くいかない。家族がどんどん恐ろしいものに見えてくる。

 でも、同級生は彼女を笑いながら言います。あんたまさか知らなかったの。その歳で? いつまでも子供だね。

 みんな、誰かの不幸の上で幸せに笑ってる。

 食べられるために生まれ、食べられるために殺される牛の不幸の上で今日の食卓は美味しく華やいでいる。

 一生懸命働いて、節約しながら税金取られて、それでも頑張って貯金しながら生きている若者の税金で余命幾ばくもない老人の生活を支えている。

 誰かが休むことなく必死で働いてくれているから、何不自由なくこの連休を家族と好きなように過ごせている。

 そんな世界で生きている。

 私もそう。誰かを踏み台にしたこの世界の一構成員として現実を生きている。

 中学の頃、それはそれは嫌な中学に通っていたことを思い出す。常に誰かが明白に嫌われていたし、陰口も横行していた。いじめ? まあ、いじめといえばいじめなんでしょうな。浮いてる、ぐらいといえばそんなもんですが、そんなの本人がどう感じるかによりますから。

 誰も助けない。私ももちろん助けない。

 きっと世間では私も最低な奴の一人なんだろう。でも、私は思っていた。ここで虐められたくないならそれなりに努力しないといけないのだ。してない方が、できない方が馬鹿なのだ。
 あなたを助けて、あなたに好かれて何になる。
 私はいつそっち側へ堕ちてもおかしくないんだよ。いや、アンタかアンタがいなかったら繰り上がってそのポジション私なんだわ。

 だからさ、話しかけやすいからって私を味方につけようとしないでよ。

 私は私なりにこのクラスで、部活で、仲良い人がいるんだよ。そのちょっとした幸せを必死で守ってんだよ。別に一瞬も仲良くなかったアンタのことなんて助けないよ。

 〝いじめを絶対に起こさない〟なんて私は無理だと思っている。私たちが生物である以上、金魚でも、ニワトリでも、ヒトでもいじめは起こるものだと思う。だから、闘い生き残る方法を考え、実行する者だけがそれなりに生きていく。狡くて、卑怯で、ある意味必死なのだ。

 私はきっと責められ、非難される人間の一人なんだろう。この倫理観も決して大手を振るって表明してはならないとわかっている。

 でも、私は思っていた。ありがとう。あなたがこのクラスの圧倒的最下位でいてくれるおかげで自分の方がましなような気がしてくる。

 私はやっぱり性根が曲がっていて、誰かの不幸を土足で踏みつけて立っていた。

 本当に中学が嫌いすぎて、勉強を頑張り、その後〝同中の人が誰も進学しない高校〟に入学した。もう二度と会うことのない人たちを人生から切り捨てて、世界が変わった。

 私の幸せは誰かの不幸の上で成り立っている。

 この映画ではその存在が具現化して一家に一人ひっそりと奥の部屋に隠されている。

 目を縫われ、口を縫われ、盲目に、言葉も奪われ、ただその家のために繋がれた、愚かで、搾取される、ありがたい存在。

 映画全体を通してグロテスクでショッキングな絵力のある映像で表現している。痛いし、怖いし、不気味だし。目から血も出る。あそこまで目から血が出ることなかなかないよ? 止血の雑さもなかなかリアル。

 特に古川琴音さんが自らの目を針と糸で縫うシーンなど、痛すぎて見ているこっちが阿鼻叫喚であった。でも、リアルだった。誰しも、どんなに高潔な人間でも、自らを不幸の生贄に捧げることはできないんだと思う。

 主人公がある意味その世界では特殊存在であった幼馴染に必死に訴えかける。ねぇ、お願い。お願い言って。そんなの関係ないって。誰かを、この世界で生きている人間を、生贄にしないと幸せになれないなんて、そんなことないって言って。そんなことしなくたって幸せになれるって言って。

 主人公の母は笑顔で言う。

 あなたにはアレが人に見えたのね?

伏線は回収していくタイプ(個人見解含む)

 ネタバレかもな。あんまり関係ないと思ってたけど、この先ネタバレかも!!

 中盤まで「怖いけど何⁉︎」「今の何⁉︎」「今のなんか意味あんの⁉︎」というシーンのオンパレードなこの作品。

 ホラー映画というとここら辺の伏線的なアレコレを全然回収しないまま勢いよく終わって「全部に説明がつかないことがかえってウンヌン」「想像の余地を残してカンヌン」等と謎の評価を得ることも多い。いや敢えての演出なのかもしれないけど。思いつかなかっただけなんちゃいますのんと思っているわけではないわけではないんですけども。

 この作品は後から味わって自分の手で手繰り寄せた時になんとなく(そういうことだったのか……?)と辿り着けるようになっている。それがすごい。そこを放り出していないというだけで作品としての評価爆上がり。

 主人公の子どもの頃の体験は夢でもお化けでもなくそこにアレがずっといたという描写であることがわかるし、祖父母の台詞もそれに繋がる。

 最初からおばあちゃんの棒読み台詞が気になってしょうがなかったが、他キャストの演技を見るとあれも敢えてなんだろう。不気味に壁にぶつかっていくシーンなんかも含めると〝思考停止〟して表面だけで感謝し、信じ込み、伝えていく表象のように思える。心の通ってない言葉。自分の頭で考えず流されていく現代社会の私たち。

 味噌の作り方、教えてあげるからね〜というおばあちゃんの台詞もやっぱり伝統を次の世代へみたいな意味合いがあるんだろうか。親から子へ、子から孫へ。信仰にも似た〝当たり前〟が継承されていく。他の考察を見るとタッパーに詰められたあのシーンへの言及もある。読んでみると「いやまさかぁ、でもありそう……」と思った。

 そしてこの映画最ショッキンングシーンの担い手である叔母さん。絶対そうなるって分かりきってるほどフリがしっかりしてる。わかっているのにびっくりしちゃうんだからありがたい。怖いよ。

 彼女は主人公と同じようにその思想に異議を唱え、家を飛び出し、一人山に篭った。

 それでも家の中に吊るされたそれを見せられた時、あぁ彼女でさえもこの秩序を抜け出せなかったんだと主人公も私たちも絶望する。

 叔母さんは言う。いずれアフリカの時代がくる、と。

 先進国が途上国の犠牲の上で成長してきたのなら。発展途上のその国の苦しみと不幸の上で幸せを成り立たせてきたというなら。

 彼らが台頭する時代、彼らの幸せを支えるのは私の不幸かもしれない。

 いじめられ、いじめっ子たちに笑われていた中学生は言う。受け入れていくことにした、と。

 彼は映画後半ではもういじめられていない。自分の荷物を舎弟のような子に持たせ、誰かの犠牲の上に安寧を築いている。

 掬いきれていない伏線はあると思うけど、わかる範囲では一つ一つに意味がある感じがした。冒頭と終盤のカップルの対比とか。

 生贄のいない家ではその家族の身体に異変が起き始める。一番初めにその被害の影響を受けたのは、最も幼い弟だった。

 クライマックスでは祖母の出産という題材的にも鳥肌もののシーンが挿入される。観ている時は「なんで!?」「何の意味が!?」と思っていたが、今となっては少し納得する部分もある。

 主人公が苦しみ、傷つき、葛藤しながら、それでもその大きな秩序を理解し〝大人〟になっていく儀式の裏で祖母が赤子を産む。若者が大切なものを失いながら自分を押し殺して社会に順応する裏で、もっとも〝得て〟いるのは彼ら老人なのかもしれない。

 みんな誰しもが知っていて、わかっていて、知らないフリをして生きている。

 比べなければ皆んな幸せになれるはずなのに、現代社会は色んなものが見えすぎて、比べるのが簡単すぎて、誰かと比較して勝っていないと幸せだと思えない。

 あなたが不幸であってくれないと、自分の幸せが信じられない。

 最後のシーン。ここだけ本当に解釈が定まらない。引きこもりの彼女と幸せな自分を比べた? アレがあの家の生贄だった?

 私はあの部屋にもあの家にいたようなアレが這いつくばって存在しているんじゃないかと思えた。

 本当は日本中どの家でも当たり前にやっていて、彼女だけが偶々わかってなかった。お子ちゃまなままだった。そんな風に。

 最後の台詞を言い放つ古川琴音さんの笑顔が見事だ。

 一人で一時間半も画を保たせる演技力には感服した。

 決しておすすめはしない。面白いかと言われればリアルタイムで観ていた時は面白くは感じなかったかもしれない。『ミッドサマー』をはじめA24作品が好きな方には刺さるかもしれないな……とは思う。人を選ぶが。

 それでも、この全く新しいホラーを自分自身で味わってみたいという方(もしくは古川琴音さんの熱狂的ファンの方)はこの夏、社会派ホラー『みなに幸あれ』是非ご覧になってみて下さい。

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