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16.10. oct 2017

先日、会社の先輩が亡くなった。齢若干二十六にして夭逝。この若さを考えれば一番最初に浮かぶ死因は「自殺」だが、念のため断っておくと原因は自殺ではない。突如病魔が彼女の元に現れ身体を蝕ばみ、あっという間に彼女を死へ追いやった。僕は来年、彼女の歳を追い越すことになる。

会社の上司といえど、関わりが薄ければ葬儀に参列するつもりはなかったのだけど、亡くなった先輩は私が入社した時からメンターとして私に仕事の仕方はもちろん、社会人としてのいろはを教えてくれたとても大切な人だった。昨年に寿退社され、まさか再会がこのような形になるとは想像もつかなかった。

訃報はいつも突然だ。今年フェイスブック越しに知人の死を二回経験したが、どちらも僕と年齢が近く「長い闘病生活の末に」などといった枕詞は添えられていない。誰もが、たとえ近しい恋人や家族であっても、その死を予期することはできていなかった。おそらく、その死の予感は本人ですら気付いていなかったのかもしれない。

多くの友人や関係者が参列される葬儀から彼女の人望と人柄の良さが伺えた。それは、半年の間メンターとして私を育ててくれた中からも感じ取れることであった。焼香を済ませて出てくる人々は皆悲しい表情を浮かべ、涙をハンカチで拭い、突然訪れた最期の別れを惜しんでいた。僕も生前のみずみずしい、希望に満ちた笑顔の遺影を見て、初めて彼女の死を自覚するのだった。

いつも人の死に際して思うことがある。それは「なぜ人は他人の死を前にすると悲しいと感じるのか」というものだ。僕もまだ齢二十六でそんなに人の死に直面する機会が多いわけではないから、数少ない機会にいつもこのことを考えては答えが出ないまま日常に戻されていく。だから、今日はまだそのことが頭に残っているうちに書き記そうと努めている。本当はあまり考えたくないことだ。それは宇宙の真理みたいに突き詰めれば突き詰めるほど寝れなくなってしまうものかもしれないから。でも、今回は書こうと努めている。その理由はなんだかわからない。

他人の死は悲しい。この前提はひょっとしたら間違っているのかもしれない。悲しいなんていう簡単な感情に収斂されるものではないのかもしれない。そもそも悲しいが「簡単な感情」というのもおかしいけど。こう考えるのには理由がある。僕は棺に納められた彼女のご遺体を見て、決して悲しいという感情に至らなかったからだ。

今回も僕はぼろぼろに泣いて嗚咽を漏らした。だけど、それが決して後ろ向きの涙でなかったことだけは言える。今言葉をひねり出そうと必死になればなるほどその感情は遠のいていくけれど、目を閉じた時には暖かい日の光芒がだんだんと視界を覆い、気づけばそっと笑みを浮かべその別れを肯定していたように思う。深く手を合わせて「ありがとう」とつぶやいた。「ゆっくり、休んでください。」と投げかけた後には心は温かい羊水に満たされていた。

ご親族の心境に鑑みれば、失礼な発言であることをあらかじめ断っておく。たかだか知り合って半年の僕が、彼女のことをあれやこれやと語ること自体が想像力に欠けた行為だ。だけど、この葬儀に参列した人の数だけ彼女への想いがあり、個人的な物語が紡がれているのもまた事実だ。

葬式や告別式を「最期の別れ」と表現するのは少し違うのかもしれないと思った。葬式や告別式は人の死を実感する場だ。突然訪れた死に向き合うために僕たちは葬儀場へ向かう。その死を受け入れるのに一度鈍器で殴られたような衝撃はあって、亡くなってしまった彼女とはもう二度と会うことはできないけれど、不思議と寂しくもなかった。なぜなら僕が生きている限りでは僕の心の中に息づいているからだ。月並みな表現ではあるけれど、多分今の僕には精一杯だ。

死んだ人のぶんまで、僕は生きるよ。たいそうな発言だけど。

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