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敗者・弱者に優しくできない理由を考えてみた

今日は天気予報通り晴れて、昼休みはとても暑くなりました。もうしばらくは暑さが続くそうですが、この3連休で空気が入れ替わるらしいです。それに期待しています。

さて、……。

資本主義は自由競争が前提。このことに異を唱える人は少ないはず。でも、自由競争の結果にまで思いを致している人はどれくらいの割合でいるのだろうか。

例えば飲食業については、新規開店した店の9割が3年以内に消えてゆくという。それだけ競争が厳しいとも言えるが、ではその9割の店の経営者はその後どのような人生を歩むのかをご存知だろうか。

閉店に至る状況はさまざま。まだ余力があるうちに決断して社員やアルバイターの給与をキチンと払う人もいる一方、ある日突然失踪して何も知らずに出勤した社員やアルバイターが経営者の失踪を知って途方に暮れることもある。

このような経営の行き詰まりは実際に起こる。だから、自由競争を肯定する人は、競争に敗れる人の存在を当然認識し、更にそういう人がその後どうなるのかも知っているべきだろう。でも、本当に知っている人は少ない。

ここで、まずは夢破れた、或いは競争に敗れた人でも生きられるしくみを整えていくことは大切だと考える。具体的には、再チャレンジ可能な社会作りにもっと関心が集まるべきなのだけど、意外に日本でそういう声は高まらない。

このような状況が、日本の活力を地味に奪っている気がする。欧米では、一度つまづいた人に対しても、もう少し寛容な印象を受ける。

それは、自由競争と言いながらも勝ち組と負け組に段々分かれていくと、その行き着く先は独占資本による市場支配という競争が成り立たない状況を招くから。自由競争だけでは自由競争ができなくなるとのパラドックスを想定しているとも言える。

この経済独占がファシズムと結びつき第二次世界大戦に至った。そのことへの反省が欧米には強く根付いたのだろう。加えて、技術の目利き能力も日本よりは確か。担保となる不動産がなければ資金を貸さない日本とは明らかに違う。

そうは言いながらも、日本にも独占禁止法はある。これが独占・寡占状況に対する歯止めとしては機能している。でも、投資マインドを変える仕組みは未だない。

これに加えて、戦後は福祉主義という考え方が欧米で広まった。これは自由競争至上主義のアメリカでは、今も国による取り組みが弱い。でも、それを教会が補完している。キリスト教博愛主義が担保する地合が整っている。

よって福祉主義は先進国では当然のこととされているが、日本では受け止めが異なる。

日本では、このような仕組みがないのに加え、救済の手を差し伸ばそうとすると周囲から「ズルイ」「不要」「逆差別」といった猛反発が沸き起こる。それは何故だろう。

私見で恐縮なのだけど、江戸時代の「お上のご政道を批判してはならない」という精神的なバックボーンの上に「上見て暮らすな下見て暮らせ」というご政道への不満を持たないようにする方便が加わったことが大きいのではないかと思っている。

自分が年貢を納めるので精一杯という状況において、自分には与えられない義務回避・生活への補助を与えられる人に対する「納得いかない感」がこのようなスタンスを生んでいるのではないか。これは十分成り立つと考えるが、如何だろうか。

だから、生活保護や障害者への支援に不満を述べる人は、自身が江戸時代の価値観に囚われていることを知るべきだろう。せっかくだからちょんまげを付けてはどうだろうか。

現代人として振る舞うためには、弱者の保護とその再起支援を是としなければなるまい。

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