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正解が一つではない場合、理屈はどの案にでもつくことを忘れない

寒さが本格的になってきました。ズボン下を穿くべきか、検討中です。

さて、……

すごく当たり前のことを書いている点については、ご容赦願いたい。それでも、どうもこの当たり前のことが理解されずに無用の争いを生んでいるような気がしているので書いてみる。

世の中には、たくさんの困りごとがある。あふれていると言っても良い。それらについて多くの人が心を痛め、その解決策を考えるのだけど、その解決策が一つであることは少ない。いくつかの候補案が出される方が多い。

それは、解決策の対象となる具体的な項目、或いは候補案の根拠となる事実について、解決策を主張する人が取捨選択しているからである。単一の原因であればそうなりにくいものの、実際は要因が複合する方が遙かに多い。

だから同じはずの事実についても、立ち位置によって見え方が変わる。それにより選択の仕方も変わるため、その候補案の正当性を理屈でどんなに主張しても、かみ合わないことは起こりうる。

この点、学校の勉強とは根本的に異なることをキチンと認識する必要がある。

学校の勉強は、事象がかなりモデル化されるため、前提となる事実については共通認識される。そのため、議論してもブレが少ない。

この体験イメージのままに、社会の困りごとも同様に話し合えば皆一定の合意点に到達できるとは、そもそも考えてはならないのである。

討論番組で、意見がすれ違うシーンを見たことがある人も多いと思う。それは、見ている事実が違う、同じでも取捨選択するものが違うという状況からスタートしていることが大きな要因であると思っている。

だから、それぞれの解決案もそれなりの理由を以て語られる一方、双方の主張は大抵ズレまくり、かみ合わないことになる。

これ、最後はその場でより多くの支持を集めた方が勝ってしまう。これは仕方がないことである。

それでも、案の採用を決める際に、その案を採用することで生じるであろう結果も受け入れられるのか、更に選んだ解決策が不成功に終わっても納得できるのか、も議論すべきなのだけど、大抵その議論は深まらない。

その結果、置いてけぼり感を抱く人も少なからず出てくるのだろうなあと思いつつ、その解決については名案がない状況。

何百年も前の学者の言葉が今でも通じるのは、この点で人はあまり進歩していないからだろう。

お読み頂き、ありがとうございました。

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