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学校での学びと社会のニーズ

学校の勉強は、社会では役立たないとよく言われる。

私は社会に出て30年は軽く経過したが、小学校で習った「㎗」はこの間で一度もお目にかかったことがない。習字も、結婚式のご祝儀袋や弔問時の香典袋への記名時には多少役立っているけれど、仕事では使わない。

リコーダーも小中学校を通じて長年使った全国民的な楽器のはずなのだから、もう少し使われても良いのではないか? リコーダーでの集まりがあると聞いたことがない。

……等々、そもそもやっている項目が社会で必要とされていないのが一点。それに加え、やり方にも大きな差異がある。

学校の勉強は、基本的に大学に入るまでは独力である。つまり、自分が1人で最初から最後までこなすことを前提としている。ワンオペなのだ。

一方で社会に出ると大抵の場合、先輩社員や同僚、上司、他の事業所の所員、取引先等との協働により業務が行われることが多い。

社会の方から見ると、学校で習う内容に社会で不必要とされるものが含まれている。そしてやり方も、多くの職場での業務処理方法とは異なっているのである。

今の世の中、インターネットの普及によりデバイスが手元にあれば、多くの物事を簡単に調べることができる。つまり、やみくもに暗記することは不要、もっと言えば時間と労力の無駄、ということになる。

一方で、学校では課題解決に向けて皆での意見や考えのすり合わせがほとんどなされていない。

未経験のできごとに直面した時に、皆がそれぞれの経験や価値観を共有して疑問点を洗い出す、或いはメンバーで意見交換してブレインストーミングを行いながら解決に向けて取り組む、ということは学校ではまだまだ少ない。

内容もやり方も違うのであれば、「あまり役に立たない」と評価されるのもやむを得ないことだと思う。

これに対して「さまざまなものに触れることや、抽象的な思考能力の涵養が学校教育の狙い」等と学校教育に意味があるという意見が出される。前者はともかく、少なくとも後者については、十分条件を満たすが必要条件を満たしてはいないと考える。

つまり、抽象的な思考能力を養う方法は、今行われているような学校教育一択となるのか? に対する明確な答えがないのである。

学校も終戦の詔書最終部にある「世界の進運に後れざらむことを期」して変わっていかないと国の将来が危うくなる。

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