フットボール依存症

フットボール依存症


 はじめにボールがきた。

 クリスマスか誕生日だったかは忘れたが、プレゼントでもらったサッカーボールを蹴りに近くの公園に走っていった。

 次に靴で、その次はユニフォームだ。公園の壁を前に、少年はジダンさながらのターンを決めて、まるで自分がこれから世界一のサッカー選手になって当然だと思い込んでいた。

 これさえあれば何でもできる気がした。

 それからは、学校から走って帰ってはボールを蹴った。部屋にはワールドサッカーキングの付録でついてきた、歴代のCL優勝チームのカレンダーが貼ってある。そして、ワールドカップの夢を見る。

 そのうちに丸いものは何でも蹴ったし、自分もその行く先と同じだけ走った。いつでもボールと一緒にいようと努め、食べることも寝ることも気をつけなければ忘れてしまうところだった。

 ある朝起きると、少年はサッカーボールになっていた。


 サッカーボールにはならなかった。

 でも、僕は事実サッカーに魅了されているし、僕の人生の大事な一部分を占めていると思っている。

 小学校の頃の僕にとっては、サッカーが世界の全てだったし、サッカーができなくなったら僕はすぐにでも死んでしまいそうだった。

 しかし、どうやらそうではないらしい。世界はもっと多くの要素で成り立っていて、自分にもそれは同じように降りかかっていた。

 例えば、ジャズだ。

 初めて、これがジャズだと言われて聴かされた時に、これはサッカーだと思った。プレーヤーはそれぞれ自由な音を出しながらも、お互いに繋がっている。次に何が来るのかという期待感、緊張と緩和。

 あるいは、本の中に見ることもあった。そんなきっかけが次第に増え、サッカーをしない日も増えた。

 しかし、尚更僕は自由にサッカーをできるようになった。

 僕はずっとサッカーに依存していた。サッカーに多くのことを求めすぎていた。

 1つのものに多くを望みすぎると、それなしでは自分が何者なのかも、何をしたらいいのかも分からなくなってしまう。

 お酒やタバコだけでなくとも、誰もが何かに依存している。それが大きくなりすぎてしまうと、学校でも仕事でも、友達だろうとそいつは君を蝕んでいく。

 だからといって、それらを否定して独りで孤高の存在として生きていくことが自立ではない。

 依存するものがたくさんあればいい。1つのものではなく、色んな場所に依存する。自立と依存は対義にあるわけではないのだ。

 本当に些細なことでいい。お隣さんには挨拶をして、良い音楽を聴いたら友達に教える。そうやって自分と世界との小さな結び目をたくさん、至る所に作っていくことだ。サッカーボールになってしまう前に。

 僕たちはもとより生まれた時から依存していたはずだ。そうゆうものへの感謝を忘れてはいけない。

 

 目の前のものに全てを求める必要はない。

 むしろ、君がもっと多くのものに支えられていると気づくべきだ。そこに依存していいし、それによって君はもっと自由になるだろう。

 ありがとう、と言うのだけは忘れないように。



スペイン1部でプロサッカー選手になることを目指してます。 応援してくださいって言うのはダサいので、文章気に入ってくれたらスキか拡散お願いします! それ以外にも、仕事の話でも遊びの話でもお待ちしてます!