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『映画を観る(AT LAST MOVIE)』Chapter-1





 『蛍の光』が流れるレンタルビデオ店の片隅で、ツトムは深呼吸した。そして己に喝を入れるかのように胸を拳で叩くと、レジへと向かった。カウンターの上に会員証とビデオを置き、震える声で『おねがいします』というと、その女性店員は無表情のままそれを受け取り、レジを打ち始めた。ぱりっとした三つ編みや、レトロな丸メガネの向こうの眠たげな目、踊るように動くほっそりとした指を、ツトムは食い入るように見つめた。黒いエプロンの胸元では『ミズノ』と書かれた名札が揺れていた。ツトムはうるさいぐらいに高鳴る心臓の鼓動をききながら、胸にしまいこんだ言葉を吐き出すタイミングをうかがっていた。

 ——あのう、探してる映画があるんですけど。

 もちろん探している映画など無い。話しかけるための単なる口実に過ぎない。そのキラー・フレーズをとっかかりに何か会話を交わそうという考え抜かれた権謀術数である。しかしその言葉はいつも喉元で詰まり、突っ張らかった舌は動いてくれず、そうこうしている間に貸出作業は終わって、今日も今日とてツトムはまた店を去るのだった。情けなさで胸をいっぱいにしながら外へ出ると、七月はじめの濃紺の夜空には満天の星が輝いていた。ツトムは大きく溜息をつくと、自転車のカゴにビデオを放り込み、サドルにまたがって力なくペダルを漕ぎ出した。

 もう、こんな夜をツトムは何十回も繰り返していた。

 築四十年のボロアパートの錆びた階段を登り、二階の角部屋に鍵を差し込んでドアを開け、中へと入る。陽当たりの悪い八畳一間のその部屋は、壁一面が棚になっていて、VHSやレーザーディスク、フィギュアなどがギッシリと並べられており、天井は映画のポスターが隙間なく張り巡らされていた。ツトムは今日借りてきたテープをビデオデッキに挿しこみ、プロジェクターを起動させ、ソファベッドに腰を下ろした。うっすら黄ばんだ壁紙に投影される映画を、ツトムはぼんやりと眺めた。それは50年代のミュージカルで、本屋の女性店員とファッション雑誌のフォトグラファーが恋に落ちるという物語だった。その色鮮やかで美しい映像を見つめながら、ツトムは溜息をついた。こんな胸ときめくラヴ・ロマンスが、果たしてオレの人生にはあるだろーか。そうしてツトムは夢想する。いつか、あの子とこんな映画を二人きりで観ることができたら……。

 ツトムは現在、某Fラン大学に通う一年生であり、この春に地方から東京へと出てきた。もうお察しのことと思うが、彼はチャキチャキの映画オタクである。同じ年頃の若者が、町に海に山に青春を謳歌しているというのに、ツトムときたら来る日も来る日も、カビくさい名画座に閉じこもって古い映画を観たり、古本屋に通って映画のパンフレットを集めたり、何百何千というビデオに囲まれて過ごしてきた。友達はひとりもいない。恋人ももちろんいない。興味のあることといえば映画だけ。真実真正のボンクラ男子である。東京に出てきたのも、何か夢や目標があってのことではなく、ただ都会に出ていきさえすれば、今よりもっと映画漬けの日々が送れると思ってのことだった。そして今年の三月末に、大学から電車で三十分ほどのところにあるボロアパートへと移り住み、大学生活が始まるまでのほんのひとときの間に、その出会いは訪れたのである。スーパーでの買い出しを終えた帰り道、ツトムがなんとなしに自転車でブラブラ走り回っていた折、商店街の一角にある店がふと目に入った。金物屋と蕎麦屋に挟まれたその小さな店に近寄って見てみると、ピンクのネオン・サインで『video boutique JUJU』と描かれた看板が掲げられており、店内ではすれ違うのがやっとというぐらいの間隔で並んだ棚の列で、何人かの客がビデオを吟味していた。興味を引かれたツトムは自転車を停めると店内に入ってみた。

 ……映画オタクのツトムにとって、その店はまったく驚愕であった。置いてあるビデオたちが、どれもこれも、ことごとくレアな廃番ビデオばかりなのである。80年代の紙パッケージ・ビデオがずらりと並び、超マイナーなマカロニ・ウェスタン、知る人ぞ知るスプラッタ・ホラーのカルト作、聞いたことすらないモンド映画やピンク映画などなどまさに宝の山で、ツトムは色めきたって店内をグルグル回った。そして次から次へと目を惹かれたタイトルを手に取り、気がついたときには両手いっぱいにビデオを抱えてレジへ向かっていた。カウンターにどさりとビデオの山を置くと、ツトムは帳簿をつけている女性店員に声をかけた。

「すみません、あの、これ、借りたいんですけど……」

 そして女性店員がふ、と顔を上げた瞬間。ツトムは息が止まるかと思った。その女性店員が、あまりにも可愛かったからである。綺麗な黒髪を三つ編みにして、レトロな丸メガネをかけたその女性店員は、あどけない顔立ちとは裏腹に物憂げな倦怠の匂いを漂わせており、それはまるで彼方の月のごとく儚げで、凛としていた。そのあまりの可愛さにツトムが口を半開きにして棒立ちになっていると、女性店員は囁くような声で尋ねた。

「——会員証はお持ちですか?」

 小さな鈴をそっと転がしたような、きれいな声だった。ツトムが口さえ利けずただ黙って首を振ると、女性店員は入会の申込用紙とペンを差し出した。

「でしたら、会員証を発行いたしますので、こちらに記入をお願いいたします」

 ツトムは曖昧にうなずきながら震える手でペンを取った。心臓が肋骨を突き破って飛び出すのではないかと思うほど、つよく、つよく高鳴っていた。半ば遠のく意識の中でどうにか必要事項を記入してそれを差戻すと、女性店員はそれを確認したのち、貸出作業を始めた。そうしてレンタルバッグに大量のビデオを詰め込むと、女性店員はまっさらな会員証と共にそれを差し出し、流麗な口調で説明をはじめた。ツトムはわけもわからぬまま黙って何度も頷き、言われるがまま料金を支払い、それを受け取った。女性店員は会釈しながら薄桃色の唇の端をほんの少しだけ持ち上げてわずかに微笑んだ。

「ふふ。そんなにたくさん、観きれます?」

 ツトムが下唇を噛み締めたまま小刻みにうなずくと、女性店員は口元に手を当ててくすりと笑った。

「すごい。今後もご贔屓のほど、よろしくお願いしますね」

 撫でるように静かに笑う女性店員の黒いエプロンの胸元には『ミズノ』と書かれた名札が揺れていた。


 その後、ツトムは自転車のカゴに大量のビデオを詰め込んで、暮れなずむ街の光と影の中を全速力で立ち漕ぎした。そしてアパートの自室へもんどり打って転がり込むと、ソファベッドにダイブし、クッションに顔を押し当てて絶叫しながら悶絶した。それはツトムの十八年間の人生において全く味わったことのない感情だったが、それがなんなのかツトムにはよくわかっていた。

 ラヴである。


 それからずうっと、ツトムは身も焦がすような恋の激情に苛まれながら、来る日も来る日も『JUJU』でビデオを借りては鑑賞し、返却するとともにまたビデオを借りる、というのを繰り返していた。『JUJU』のラインナップが大変魅力的だったということもあるが、それより何よりツトムにとってはミズノに会うということが重大事であった。そうした狂おしい日々の中で、ツトムはいつしかミズノに声をかけようと目論み出した。たとえ二言、三言でもかまわない、彼女と会話を交わすことができたら。しかしミズノの姿を目にするたび、ツトムは全身が硬直し、何も言えなくなってしまうのだった。ツトムの想いはますます募る一方であった。

 

 そして七月の終わり、大学の帰りにツトムがいつものように『JUJU』へと寄ったときである。この日、店内にミズノの姿はなく、レジカウンターには長髪の青年が気だるそうに立っていた。少し落胆しながらもツトムがビデオを二本借りようとしたとき、カウンターの奥に大きな張り紙がしてあるのが目に入った。そこに書かれた文言を読むなり、ツトムは冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような気分になった。

 “八月三十一日をもちまして、JUJUは閉店させていただきます。
 ご愛顧ありがとうございました。”

 いてもたってもいられなくなったツトムは、かったるそうにレジを打つ長髪の青年に食らいつくように尋ねた。

「あっ、あのっ、ここっ、閉店しちゃうんですか?」
「そうスよ」
 長髪の青年はこともなげに答えたが、ツトムはとても尋常ではいられなかった。
「な、なんでですかっ!?」
「何で、って……フツーに経営難とかそういう系っスよ。バイトなんであんまよくわかんないっスけど」
「そんな……ど、どうにかならないんですかっ?」
「どうにもなんないから閉店するんスよ。オレもここ最近入ったばっかなのにマジ最悪っスよ。何かいいバイトあったら教えてくださいよ」

 ツトムは覚束ぬ足取りで外へ出た。後頭部がじんじん疼き、景色は淡くぼやけ、心音だけが妙に大きく鳴り響いていた。まさか、まさか、この店がなくなるなんて。マニア垂涎の品揃えが失われてしまうというのも悲しかったが、それ以上に、もうミズノに会えなくなってしまうことが悲しかった。ツトムは自転車を漕ぐ気力すら失い、うつろな目をしたままアパートまで自転車を押して帰った。そしてソファベッドに倒れ込み、クッションを噛みながら嗚咽した。一晩ツトムは泣き明かした。そしてカーテンの隙間から漏れて来る朝日に涙を乾かしながら、ツトムは重大決心をした。

 ——何がなんでも、ぜったいぜったいぜったいぜったい、ミズノに声をかける。

 それから毎日、ツトムは『JUJU』へと通った。そしてミズノの姿を見かけるたび、今日こそ声をかけよう、今日こそ声をかけようと思った。しかし背水の陣を引かれてもなお、あたためていたセリフはいつも喉元のあたりで引っかかったまま吐き出されることはなかった。ツトムは自分の小心ぶりが恨めしくて情けなくて仕方なかった。


 そうしてヤキモキしているうちに日々は過ぎていき、あっという間に閉店日である八月三十一日を迎えた。ツトムはクローズの二時間もまえから『JUJU』を訪れていた。不幸中の幸いというべきか、この日、店の従業員はミズノしかいないようだった。ツトムは店内をずっとウロウロしながら機会を伺い続けたが、やはり、どうしても、声をかけることはできなかった。最終日ということで集まっていた常連の映画マニアたちも、ひとり、またひとりと名残惜しそうに店を去っていき、気がつくと店内にはツトムとミズノだけが残されていた。そうして静まり返った店にやがて『蛍の光』が流れ出した。ツトムは店の片隅でしゃがみこんだまま、それを遠く聞いていた。

 ——くそう、くそう、くそう、くそう。いつもこうだ。オレはこうやって、勇気のカケラも見せずに死んでゆくんだ。

 ツトムは膝の上で拳を固く握りしめながら、全身全霊で己を呪い、そして世界さえ呪った。ああ、もう、こんな世界、なくなってしまえばいい。消えちまえ。終わっちまえ。何から何まで全部なくなっちまえ。そんな薄暗い、逆恨みの世迷言をブツブツつぶやいていたときである。ふいに、鈴を転がしたようなきれいな声が背後から聞こえてきた。

「……あの、すみません」
「っ、はいいいっ!!?」
 ツトムが驚きのあまり声を張り上げて振り向くと、そこにはミズノが立っていた。ミズノはさも申し訳なさそうに頭をぺこりと下げて言った。
「ごめんなさい。もう、閉店のお時間なんです」
「えっ、あっ、こっ、こちらこそ、すっ、スイマセンっ!」
 ツトムは咄嗟に立ち上がると、しどろもどろになりながら何とか言葉をつむいだ。
「出ますっ! すぐ出ますっ! ご、ごめんなさい! ホントっ、スミマセン!」
 しかしミズノは下唇をきゅっと噛んで目を伏せたのち、静かな声でぽつりと言った。
「……今まで、有難うございました」
「……へ?」
「いつも、いらしてくれてましたよね」
「え、あっ、お、オレのこと、覚えてて、くれたんですか?」
 予想外の言葉にツトムが驚きながら尋ねると、ミズノはちいさく、ふ、と笑って答えた。
「だってほとんど毎日来て、そのたびにたくさんビデオ借りていくんですもの。そんなの、覚えるに決まってます」
 そしてミズノは店内を眺め回しながら言った。
「……私がいうのもおかしいですけれど、いいお店ですよね、ここ」
「うん、お、オレもそう思いますっ! こんな最高のビデオ屋、ないですよっ!」
「アルバイトの募集の張り紙を見てここに入ったとき、本当にびっくりしました。これまで名前しか見たことないような映画がたくさん、あるんですもん」
「そっ、そう! そうなんですっ! 宝の山ですよっ、こんな品揃えの店、なかなかないですよ!」


 ミズノがじぶんと同じ気持ちを抱いているということが、ツトムにとってはたまらなく嬉しかった。そして何より、この数ヶ月、ずっと恋焦がれながら一言もことばを交わせずじまいだったミズノと、こうして普通に会話しているということがとても信じられなかった。ツトムは舞い上がるような気持ちだった。

「しかもここ、従業員は旧作なら月三十本までただで借りられるんです」
「ウワッ、う、うらやましいっ! なんてすばらしい職場だ!」
「ふふ。でも、ぜんっぜん、観きれなかったなぁ……」
「……オレも、です。まだ、気になってるの、たくさん、あるのに」
「……なんか、ヘンな気分です」
「ヘン?」
「はい。いまだに、ここがなくなるなんて、なんだか信じられなくって。明日なんか来なきゃいいのに」


 そういってミズノは目を伏せると寂しそうに笑った。ミズノがじぶんとまったく同じ気持ちを抱いているということに、ツトムは大いに胸をときめかせた。話がしたい。もっと、もっとミズノと話がしたい。今だ。今こそ言うんだ。喉元でずっと出番を待つ、とっておきの決め台詞を。ツトムはゴクリと唾を飲み込むと、思い切って声を張り上げた。

「っ、あっ、あのうっ!」

 ——しかし、その声はかき消された。まるで大砲を打ち込まれたかのようなものすごい地鳴りが、激しい揺れとともに店内を襲ったのである。驚きあたりを見回すのもつかの間、その揺れはどんどん大きくなり、店全体がガタガタと震え出した。蛍光灯は明滅を繰り返し、棚からばさばさとビデオが落ちた。あやうく倒れそうになったミズノを、ツトムは反射的に抱きとめた。両腕の中で小刻みに震えるミズノを見て、ツトムはただオロオロするばかりだった。やがて電気が消え、店内は暗闇に包まれたが、凄まじい揺れはなおも続いた。ツトムとミズノはしゃがみこみ、互いに抱き合ったまま、これをただじっと耐えていた。どのぐらい時間が経っただろうか、地震はゆるやかに収束し、ほどなく蛍光灯が点いた。めちゃくちゃになった店内を眺めながらふたりはしばし呆然としていたが、やがてミズノははっとした顔になって両手でツトムを突き飛ばした。
「ひゃ!」
 ツトムは後ろへひっくり返り、頭をしたたか打った。
「あでっ!」
「っ、ご、ごめんなさい!」
 後頭部をさすりながらも、ツトムはなるべく平然を装って答えた。
「いっ、いやっ、全然、ぜんぜん。平気です。余裕です」
「お、お怪我、されてませんか……?」
「いやもう全然、ぜんぜん、完全にめちゃくちゃ無事です。そ、そちらこそ怪我、ないスか?」
「大丈夫です……すごい、揺れでしたね……こんなにおっきいの、はじめての経験です……」
 床にぺたんと座り込んで放心状態でそうつぶやくミズノにちょっとやましい感情を抱きつつも、ツトムはなんとか立ち上がった。
「とっ、とりあえず、ここ、出ましょう。ここにいたら、危ないかも」
「は、はい……」

 ツトムとミズノはよろめきながら店を出た。


 そして、そこに広がる光景に、ふたりは言葉を失い、ただ立ち尽くした。
 ツトムは夢でも見ているのではないかと思い、目をこすり、頭を叩き、顔を拭って、何度もなんども辺りを眺めたが、やはりそこに広がる光景は変わらなかった。ミズノはふらふらと数歩あるいて立ち止まり、気の抜けた声でぽつりと言った。
 
「……なに、これ?」

 外には、何もなかった。

 道路も、建物も、人影も、見渡す限り何もなかった。

 ただ真っ白な空間が、どこまでも広がっていた。

 ツトムとミズノ、そして『JUJU』以外のすべては、完全に消え失せてしまっていた。

 無限に広がる真っ白な世界に、ふたりはただ、立ち尽くすばかりだった。



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第1回ジャンプ恋愛小説大賞で銅賞。中華一番というヒップホップクルーで踊りつつ、ヤングラヴというソウルバンドで愛を語り、そのスキに文章を書き連ねています。 連絡→yamatsukarikimaru@gmail.com