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『映画を観る(AT LAST MOVIE)』Chapter-2


 それから、長い時が過ぎた。いや、“長い時”という言葉は正確ではない。『JUJU』の壁時計が十一時六分のところで止まったと同時に、この世界からは時間という概念さえも失われてしまったようだった。ツトムとミズノは空腹や渇きをまったく感じなかったし、眠ることさえできなかった。だが、なぜか『JUJU』の店内の電気は通じており、ガスや水道だって使えた。そんな奇妙で果てしない“無”のなかで、ツトムとミズノは必死にあがいた。あらゆる番号に電話をかけてみたし、真っ白な空間をひたすら歩き続けてみたりもした。だが電話はどこへも繋がらなかったし、どれだけ歩いてみてもどこへも辿り着けなかった。歩いて、歩いて、歩いた末にたどり着くのはいつも必ず『JUJU』なのだった。あらゆる挑戦はすべて無為に終わった。“時間は存在せず、空間はまやかしであり、世界はここにしかない”という事実に直面したツトムとミズノは、深い絶望に苛まれた。ふたりは泣いて泣いて泣き果て、いっそのこと頭がおかしくなってしまえばいいとさえ思ったが、それすらかなわなかった。ふたりはずっと、完全な正気のまま、『JUJU』に佇み続けた。会話さえ交わさず、身動きひとつ取ることなく、うつろな目でただ永遠を過ごした。ツトムは店の扉にもたれてしゃがみこみ虚空を眺め続け、ミズノはレジカウンターに突っ伏したままじっとしていた。そうして、どこまでも続く真っ白な世界で体育座りをしているとき、ふいにツトムのぼやけた脳裏でひとつの記憶が蘇った。


 ——そういえば、むかし、こんな映画を観たような気がする……。


 それはたしか、映画館が舞台の映画だったはずだ。深夜のレイトショーで、観客は若い男女ふたりだけ。ふたりは赤の他人でお互いのことはまったく知らない。けれど、何か運命的な繋がりを感じている。すると映画の上映中に大きな地震が起こる。地震が止んでから外に出てみると、世界のすべてが消失していた……というストーリーだった。果たしてオレはいつ、そんな映画を観たんだろう。そしてツトムは、ささくれのような僅かな記憶の断片を慎重に引っ張りあげようと試みた。


 ——最後、あのふたりはどうなったんだっけ……。


 だが、どれだけ記憶を掘り起こそうとしても、かつてそういう映画を観たという以上のことは思い出せなかった。タイトルはおろか、役者の顔も名前も出てこなかった。しかし、その記憶の断片は停滞していた思考回路を発火させ、やがてひとつのアイデアを導き出した。ツトムの心臓がどくんと脈打った。お腹の底からりんりん力が湧いてくるのを感じた。そうしてツトムは立ち上がると、『JUJU』へと入っていった。
 
 息が詰まりそうなほどの静寂に満ちた店内を、ツトムはぐるりと見回した。ツトムが入ってきてもミズノは顔を上げることすらなく、レジカウンターに突っ伏したままだった。そしてツトムはカゴを手に取ると、床に散乱しているビデオを拾い始めた。ミズノはノロノロと顔を上げて、ツトムの動向をぼんやり眺めていたが、やがてか細い声で尋ねた。

「……なに、してるんですか?」
 ツトムは手を動かしながら答えた。
「片付けです」
「かたづけ……」
 ミズノはまるでそれを初めて聞いた言葉かのように繰り返した。
「……なんで、そんなことするんですか?」
「映画を観るんです」
「……えいが?」
「はい。電気は使えるし、TVもビデオデッキもあるし、それに何しろここには、観たことない映画が山ほどある」
 そしてツトムはビデオで一杯になったカゴを置くと、ミズノを見つめて言った。
「あの、よかったら、一緒に観ませんか?」
 ミズノはレジカウンターを叩いて声を荒げた。
「……っ、そんなことしてっ、いったい、何になるんですかっ!?」
「何にもならないですよ。でも、少なくとも、何もしないよりよっぽどマシだ」
「誰もいないっ、家族も友達もいないっ、他になんにもないこの世界でっ、映画なんか観る気分になれないですよっ!!」
 そうして肩で息を切らすミズノを、ツトムはしばらく黙って見つめていたが、やがてぽつりとつぶやくように言った。
「……あの、オレ、高校受験で一浪してるんですよ」
「……は?」
「家から一番近いっていう理由で選んだ高校だったんですけど、どうせ受かると思ってそれ一校しか受けなかったら、オレだけ落ちたんですよ。みんな高校入ったら遊び始めるじゃないですか、でもオレはその輪に入れなくて、ひとりだけ取り残されちゃって」
 突然の告白にミズノはキョトンとしていたが、ツトムはつぶやくような声で続けた。
「……次の年にはそこに入学できたんですけど、オレだけ一個上っていうのが、もう、とにかく、つらくて。浪人させてもらった手前、不登校になるのも申し訳なかったし、かといって開き直ることもできなかったし。毎日毎日、死んだ目で過ごしてました。そんときに出会ったのが、映画だったんですよ。夜中、いろんなこと考えてるうちに寝らんなくなっちゃって、そんであきらめてTVつけたら、“死霊の盆踊り”やってたんですよ」
「……エド・ウッドの?」
「そう、そうです。史上最低の映画監督っていわれるエド・ウッドが脚本を書いた、史上最低のホラー映画。全員棒読みだし、突然昼になったり夜になったり、とにかくいい加減でめちゃくちゃテキトーで、死ぬほどつまんない映画。でも、オレ、初めてあの映画観たとき、泣いたんですよ」
「……あれで? なんで?」
「なんだろう……うまく言えないんですけど、“生きてていいんだ”って思ったんです。面白い映画は“生きててよかった”って思わせてくれるけど、クソ映画は“生きてていいんだ”って思わせてくれるんですよ。とにかく、そんとき、オレは……こんなにサイテーで、くだらないものがあるんなら、誰だって生きてていいんじゃないかって……ただ、そう思ったんです」
 ツトムは左の手のひらに右の拳でパンチをぶつけながら熱弁をふるった。
「映画なんか観たって、別に何にもならないですよ。映画をどれだけたくさん観たってお腹いっぱいにはならないし、病気が治ることだってない。映画は、何の問題も解決してくれない。でも、思いっきり笑ったり泣いたりすることはできる。たとえどんだけつまんなくたって、文句言って盛り上がれるじゃないですか」
 ミズノは黙ったままじっとツトムの顔を見つめていた。ツトムは両手を広げると、声を張り上げた。
「それに……それに、こんな世界でやることなんて、もう映画を観る以外ないじゃないですか」
 ツトムがそういうと、ミズノは下唇を噛んでうつむいた。店内に深い静寂が訪れた。そこでようやくツトムは、自分が一本調子でまくし立てていたことに気づき、すまなそうに頭を下げた。
「……や、あの、その、なんか……すいません、押し付けがましい話しちゃって……」
「……軍手、あります」
「へ?」
 ツトムがキョトンとしていると、ミズノは引き出しから軍手を二組取り出した。そしてツトムのもとへと歩いていくと、軍手を差し出した。
「……私も、手伝います。ひととおり片付けたら、まず、“死霊の盆踊り”から観ましょう」


 そうしてミズノは小さく、ふ、と笑った。とても優しい微笑だった。


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