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山塚りきまるの『なんかメロウなやつ聴きたい』第九十三回 これから「坂本龍一」の話をしよう特集(前編)


坂本龍一

彼が世界でもっとも有名な日本の音楽家のひとりである。ということに異論を挟むものはないと思います。

きょうは、坂本龍一さんについて語っていきたいと思います。

僕は坂本龍一さんの関連作はCD/レコード合わせてもせいぜい40枚程度しか所持していない非常にライトなファンですが(一見多く見えるかもしれませんが、YMOは言うに及ばず、映画音楽、セッション・ミュージシャンやアレンジャーやプロデュースの仕事なども非常に多い方なのでこの数字は全然大したことありません)、ライトなファンであるがゆえに、その膨大なキャリアからほんの数曲を選び、熱狂的支持層と無関心層を繋ぐ、いい湯加減の文章が書けるのではないかと思っています。

やってみないことには、わかりませんが。

それでは、レッツ・トライ。


坂本さんは1952年生で、幼稚園の頃よりピアノを習い始め、小学時代にバッハに傾倒、中学時代にドビュッシーに衝撃を受け作曲を独学で開始、高校時代にはジャズ喫茶に入り浸る一方で現代音楽も聴きあさるという音楽漬けの少年時代を送り、東大より入るのが難しく、卒業するのはもっと難しいと言われている東京藝大作曲科に進学します。

そして大学三年のときに結婚し、バーでピアノを弾いたり、友達が関わっている劇団に楽曲提供したりと、次第に“現場”での活動を増やしていきます。

転機は1974年に訪れます。当時大学院生だった坂本さんは、新宿ゴールデン街でフォーク歌手の友部正人さんと出会って意気投合し、その翌日(!)にはレコーディングに参加、『だれもぼくの絵を描けないだろう』というアルバムで坂本さんは三曲ピアノを弾きます。それは坂本さんにとって初めてのレコーディング経験でした。坂本さんのピアノを気に入った友部さんは、『一緒にふたりでツアーをしないか』と話を持ちかけ、半年間、日本中のライヴハウスを回る旅に出ます。

このころのツアーの模様を収めたアルバムが出てますので、一曲聴いてみてください。



以降、坂本さんはスタジオ・ミュージシャンやアレンジャーの仕事を始めることとなります。ジャンルを問わず非常に多岐にわたってお仕事をされているのですが、一番有名なのはおそらくこれですね。



東映ヤクザ映画の悪役・殺られ役で結成された『ピラニア軍団』がリリースした唯一のレコードです。この曲はキング・オブ・ディギンことMUROさんのミックス・テープにも収録されているので、そちらから知ったという方も多いと思われます。

これ作詞・作曲は東北が生んだ鬼才SSW、三上寛さんが手がけているんですけども、編曲が坂本龍一さんなんですね。当時ファンク・ミュージックに傾倒していたという坂本さんが、漢臭い歌謡をメロウでアーバンなファンクに仕立て上げています。

70年代、歌謡曲をファンク風にアレンジするのは普通っちゅーか、まぁ世界水準だったんですけど(東映ヤクザ映画の音楽も基本的にほぼファンクです。ちなみにほとんど津島利章さんという方が手がけています)、こういうドープでメロウなアレンジっていうのはほとんど誰もやってませんでした。いい曲ですね。

1977年、坂本さんは25歳で大学院を卒業し、友人の紹介ではっぴいえんど鈴木茂さんと出会います。それをきっかけにロック/ポップス界隈の人脈は広がり、山下達郎さんや大瀧詠一さん、細野晴臣さんや高橋幸宏さんなどと出会うこととなります。

そして1978年2月、伝説の『こたつ集会』が開かれました。

細野さんのお家に坂本さんと高橋さんが呼ばれ、三人でこたつに入り、みかんとおにぎりを囲みながら細野さんがYMOの構想について話したのです。

坂本さん曰く、『大学ノートに富士山が爆発している絵があって、そこに大きく“400万枚”とか書かれていた。“イエロー・マジック・オーケストラ”という名前も描いてあったと思う』とのことですが、まあまあ、ほのぼのと狂った光景ですよね(笑)。坂本さんは『まあ、時間あるときならやりますよ』という不遜な態度だったようですが、かくしてYMOはここに結成されたのです。

それと同時に、坂本さんは自身の初のソロ・アルバムの制作を進めていました。音楽の日雇い仕事を終えた深夜から明け方まで、コロムビア・レコードに自分の機材を持ち込んで何ヶ月もかけて少しずつレコーディングを重ねていったのです。

そうして1978年10月にリリースされたのが、『千のナイフ』でした。



いい曲ですね。イントロの宇宙人の演説めいたパートは、毛沢東の詩を坂本さんがヴォコーダーを使って朗読したものです。

ちなみにこのジャケットのスタイリングは高橋幸宏さんが手がけていて、それまで長髪にTシャツにジーンズにサンダル姿で、服装のことなど一切構わなかった坂本さんに髪を切らせ、アルマーニのジャケットとリーバイスのジーンズを履かせて、周囲の坂本さんに対するイメージを一変させました。


そしてその翌月、YMOはデビュー・アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』をリリースします。



この曲のタイトルは坂本さんがファンであるジャン・リュック・ゴダールの映画『東風』から来ています。他の収録曲『マッド・ピエロ』『中国女』もゴダールからの引用ですね。

当初は風変わりなカンフー・ディスコとして一部でフロア受けしていたYMOですが、転機は1979年8月に訪れます。

ロサンゼルスで海外公演を行ったのです。

坂本さんは当時、ドイツのテクノやイギリスのニュー・ウェイヴをよく聴いていたそうで、『アメリカのヤツなんかにわかるのかなあ』という気持ちだったそうですが、結果は大ウケ。

それを機にYMOは大々的なワールド・ツアーに打って出ることになります。

ちなみにこのとき、YMOの国内人気はさほどあるとは言えない状況でした。ツアーはロンドンから始まったのですが、自身の楽曲である『エンド・オブ・エイジア』でスタイリッシュなカップルが踊っているのを見て、坂本さんは“これでいいんだ。この方向性で間違っていないんだ”と自信をつけます。



超かっけー。



ちなみにアメリカのどこでやっても必ずウケたのはこの曲、『ビハインド・ザ・マスク』だそうです。YMO史上最もブラコンなナンバーで、AORっぽいコード進行や風通しの良いグルーヴがアメリカ人にウケたのでしょうか? ちなみにこの曲はのちにマイケル・ジャクソンエリック・クラプトンがカヴァーしています。

そうしてワールド・ツアーは大成功に終わり、YMOは海外リリースが決定します。

一躍大スターになったYMOは社会現象にまでなり、坂本さんの髪型は“テクノ・カット”として大流行します。

1980年にリリースされた三枚目のアルバム『増殖』では初のオリコン1位を記録。

ファンには追いかけ回され、メディア露出は爆発的に増加。

そうした状況を坂本さんは『憎悪』という言葉で表現しています。バンド活動にしても最初は片手間にやるつもりだったのに、いつのまにか自分の中でやりたい音楽がだんだんはっきりしてきて、でも思い通りにできないというストレスが坂本さんの中で生じ始めます。

そして坂本さんはアンチYMO、『YMOにはできない過激なことをやろう』と思い立ち、二枚目のソロ・アルバム『B-2 UNIT』をほとんど独力で制作します。



当時、ニュー・ウェイヴやノー・ウェイヴに傾倒していた坂本さんが作った、ミニマルかつ非常に攻撃的なビート。このアルバムには、それまでの坂本さんやYMOの特色であったオリエンタルでエキゾチックなメロディというのはほとんどなく、自閉的な、というか自傷行為的なビートが収められた、かなりダークなアルバムでした。最近リマスター盤が出ましたんでぜひ聴いてみてください。

このころ、バンド内の人間関係はかなりギクシャクしたものになっており、細野さんと高橋さんはアンチYMOを打ち出した坂本さんへの意趣返しか、『CUE』という曲をふたりで制作します。なんと坂本さんがドラムを叩いています。三人ともこの時期はかなり屈折していたということが伺えると思います。



そんな確執もなんとか乗り越え、1981年11月、YMOは六枚目のアルバム『テクノデリック』をリリースします。全員が言いたいことを言い合うようにした結果、坂本さん曰く『120点ぐらいのアルバム』が出来たのです。



ミニマルなポップ・ミュージックです。アイデアは面白いしメロディも愉しいのに、ループするピアノが何とも言えない不穏さを醸し出しています。左翼的情熱。というほどのものは感じませんが、はっきりと軍国主義や独裁体制のパロディ(YMOは中国の人民服やナチスの軍服を着てライヴしています)を行なっています。

暗く、冷たく、重たいビートが大半を占めるこのアルバムはしかし、優れた先進性と多様性があり、未だにファンの中では『最高傑作』との呼び声も高いものです。

『テクノデリック』でやりたいことをやり尽くした三人は、もう終わってもいいかな、という気分になっており、しばしの休止期間に入りました。その間に坂本さんはYMOのサポートもしていた矢野顕子さんと二度目の結婚をしています(娘の美雨さんは既に生まれていました)。

そして休止が明けると、『最後にひと花咲かせて終わろう』ということになり、“可愛いおじさんアイドル”をやろうということになり、七枚目のアルバム『浮気なぼくら』をリリースします。ポップな歌謡曲テイスト全開のこのアルバムは、硬派なファンを憤慨または失望させ、熱心なYMOファンであった大槻ケンヂさんなどは当時を振り返って『ズッコケた』と言ってますが、僕はこのアルバムかなり好きです。


僕が“胸キュン”という言葉を多用するのはこの曲の影響ですし(ちなみに胸キュンというのはこの曲を作詞した松本隆さんの造語です)、このMVに映るもの全てが僕の人格形成そのものに大きく影響を与えています。

間違いなく僕の人生を変えた一曲です。

カラオケでも絶対歌います。

この名曲は幾度となくカヴァーされていますが、アニメ『まりあ†ほりっく』EDテーマ、天の妃少女合唱団ヴァージョンが一番秀逸だと思います。

このアニメ面白かったんですよ。原作もすごく面白い。高校時代、ジョン・リー・フッカー聴きながら読みまくってました。

また、『浮気なぼくら』の発売前月には、坂本さんは三枚目のソロ・アルバム『左うでの夢(坂本さんが左利きであることからつけられたタイトルです)をリリースしていますが、『B-2 UNIT』の頃にあった怒りや攻撃性といったものはもう感じられません。

歌うのは嫌い、と言いながらこのアルバムでは積極的にヴォーカルを取っていたりして、どこか多幸感すら漂っているアルバムです。

坂本さんのファンの中でも本作をフェイヴァリットに挙げる人は多いです。おそらくYMOを“やりきった”ことで、それまで坂本さんの中で渦巻いていた“憎悪”は消え去ったのではないでしょうか。


ラスト・コンサートを経て、YMOは『散開(軍事用語)しました。

坂本さんはまだ若干31歳でした。



さて、YMO散開後の坂本さんの動向についてですが、“これから「坂本龍一」の話をしよう(後編)”のほうで語らせていただこうと思います。お楽しみに。

というワケでいかがでしたでしょうか、山塚りきまるの『なんかメロウなやつ聴きたい』第九十三回 これから「坂本龍一」の話をしよう(前編)、そろそろお別れのお時間となりました。後編もよろしくお願いします。お相手は山塚りきまるでした。



愛してるぜベイベーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!



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