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【実録】上海生活#2(中国人はなぜ道を譲らないのか)

ぼくは上海生活の移動手段として電気自転車(バイク?)を利用している。
この電気自転車は、日本の電気アシスト付き自転車とは大きく異なり日本の原チャリが電気(モーター)で走っている感じ。
法的にも自転車扱いなので、公安でのナンバー登録は必要であるが、免許証も不要で現代の中国人の「足」として欠かせない存在となっている。

スペックも車種によるが家庭用電源から一晩の充電で30km〜50kmほどの走行が可能で、しかもスピードは40km/hほど出るので生活圏内の移動手段としては非常に便利で経済的。朝晩の通勤時間帯の自転車専用レーンはこの電気自転車で渋滞が起きるほどだ。

さらにデリバリー文化の浸透している中国では、コーヒー1杯でも
ネットで注文すると自宅の玄関までこの電気自転車で配送してくれるので、昼夜関係なくこのデリバリーバイクがものすごいスピードで街中を飛び回っている状況でもある。
上海に赴任した当初、この電気自転車が街中でほとんど音もなくものすごいスピードで走り回っていることに歩いて移動することに命の危険すら感じた。

その頃よく中国人のビジネスパートナー(以後、王さん(仮名))に「日本人は信号しか見ないから危ないですよ」って言われて、「信号見ないで何を見るの?」と当時は何を言っているのか理解できなかったが、その後、上海市内の様々な場所を歩いたり、自分でも電気自転車に乗るようになって、その言葉の意味を徐々に思い知ることになるのであった(笑)

上海市内では、さすが大陸、かなり広めの自転車専用道路があって、車道とは分離帯で区別されてところが多く、そういう面では日本の道路事情よりは安心感がある。

だが実際に走ってみてどうだろうか。

ぼくはある朝、いつものように電気自転車で自転車専用道路をで走っていると前方を横に3台に並んでおしゃべりしながらのんびり走っている人たちがいた。後ろにぼくが近づいても気がついていないのか、一向に道を譲る気配がない。仕方なくクラクションを鳴らすと一番左側に、1台分ギリギリ通れるくらい少しだけ隙間を開けてくれた。横を通り過ぎるとき、悪びたそぶりもなく、彼らは何もなかったようにおしゃべりと続けている。
彼らはその後も後方から来るバイクにクラクションを鳴らされ続け、でも列を乱すことなくおしゃべりしながら横3列で走り続けている。

「どうして彼らは後ろから来るバイクにクラクションを鳴らされるのがわかっているのに少しでも端を走ろうとか思わないの?それに公共の道路を横に並んで走るって邪魔だし迷惑だよね」と、ぼくは一緒に走っていた王さんに尋ねてみた。
すると王さんは、「日本人は、公共の場はみんなのモノだから譲り合ったり、他人の邪魔になったり迷惑にならないに行動するでしょ。中国人は、公共の場なんだから自分のモノでもある。だから自分が自由に使って何が悪いの?っていうのが基本的な考えだよ。さっきもぼくらが通れるように少し道を空けてくれたでしょ。通れるだけの道を空けたわけだし、実際に通れるのに何か問題あるの?って考える。」

なるほど。

日本人の感覚だと道路で横に並んでいる状況を目の前にした時点で、マナーが悪いよね、とか、迷惑な行動だよね、とか「こうあるべき」という原則論(スジ論)をとっさに考えてしまう。それは、そうなるように子供の頃から躾けられているから当然でもあり、それができない人は「出来が悪い」「常識がない」と社会から判定されてしまうことあるだろう。

一方、中国人は、横に3列並んで走っていても、「他の人が通れるか、通れないか」「どのくらいの現実的影響があるか」など「道路の幅」や「影響の大きさ」という「量」で判断する。だから、人が完全に「通れない」ような状況では、文句も言うし、中国社会でもマナーが悪い人と判断されるらしい。どの程度なら人の迷惑にならないかを適切に判断し、臨機応変な行動をできる人が中国社会の「優秀な人」となるらしい。

この結果として、社会全体としてはどうなるか。

日本社会では、ある現象を前にした時、誰が判断しても結論がある程度は同じになる。「道路で横に並んでおしゃべりをしている」は、日本人の誰が考えても、どんな状況下でも「そもそもよくないこと」であり、そこに判断の大きなブレはないように思う。

しかし、中国社会は、「量」を判断する思考だから、道路にどれくらいの幅(量)があれば他人の通行に影響しないか、人それぞれの判断にバラつきが出る。その量を5mと考える人もいれば、50cmあれば十分と考える人もいる。だから中国人は人によって判断が不揃いで、みんないうことが違う。ここにぼくは戸惑う。この国には規範というものがないのかな、と。
そして、イラ立ち、ストレスを感じる。この部分は、仕事上においてもぼくのストレスを感じる大きな要因のひとつでもある。

ただ、そもそも中国人は、日本人の「こうあるべき」というような「スジ」で判断する習慣を持たないのだからそれも当然であり、このイラ立ちやストレスを少しでも解消するには、「スジ」ではなく「量」で考える人たちなんだという現実を理解するしか方法はない。

「スジ」か「量」か。

これは、道徳、文化、習慣などによる一種の思考のクセや条件反射のようなものであって、それには「良し悪し」や「正しいか間違っているか」は、もともと存在しないとぼくは思っている。

だからお互いに相手のことを「理解できない」「おかしい」と感じることもまた当たり前なのである。

次回に続く。。。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!


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