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【実録】上海生活 #6(それってホントに正しいの?)

そもそも他人のいうことは正確じゃない?

中国人の人々は「他人の言うことは正確ではない」ことを前提に人とコミュニケーションをしている言ってもいいかもしれない。日本人は自分の言うことも正確であろうとするし、他人にも厳密性を要求する。不正確さや事前の準備不足に対する許容度が低い。そのために社会に流通している情報の信頼度は一般的に高い場合が多い。例えば、電車やバスの時刻表などもその一例であり、だから、万が一、他人の不正確な情報で無駄足と踏んだり、損失を被ることに強い拒否感を示す。「この前、あなたはこう言ったじゃないか?」「これ、ちゃんと調べて言ったの?」と常に確認が必要だ。それに対しての返答も「それは、自分なりに調べて言っただけで、それが正しいかどうか確認するのはあなたの仕事であって、私には関係ない」と、こうくる。
日本人は、基本的に性善説に基づいた思考、行動をする。口にしたことはあっているだろう。約束は守ってくれるだろう。しかし、中国人はそうとは限らない。そもそもそれが嘘つきとか裏切りという認識はなく、あなたは勝手にそう解釈しただけでしょ、という具合だ。

中国人の人たちは「他人の言うことは正確でない(あてにならない)」ことを最初から前提にしているし、人の認識には幅がある。人によって解釈の余地にかなり大きなズレがあることが、会話をしながらすでに計算に入っている。これが「スジ(=べき論)ではなく、量(=現実的影響)で判断する」という意味である。だから他者の発信する情報が不正確で、時に自分が不利益を被ることがあっても、それは最終的には自分が判断したことで、特に自分が不利益を被ることがあっても、それは最終的には自分が判断したことで、当然、愉快ではないが、世の中はそういうものであると粛々と受け入れる。

考えてみれば、どんなに厳密に、完璧にと思って話しても、必ず情報や省略や変形、誇張が生じる。
そういう意味では、もちろん程度の問題はあるが、中国人社会の「他人の言うことは正確ではない」という前提には合理性があるし、一方で「厳密性」「完璧性」への要求を強めつつあるかに見える昨今の日本社会の状況は、出口の見えない袋小路に入り込む可能性がある。

ぼくの前職の旧態依然の官僚的組織では、そういう面が色濃く出ている環境であり、報告書ひとつを取ってももちろんビジネス文書として誤字や脱字に完璧さを求めることにまったく異論はないが、それぞれの上司の好みに対する完璧さも求められていた。
どういうことかというと、その報告書は、最終的には役員の承認が必要な書類であったが、それぞれの役職、課長は部長の好みに修正し、部長は取締役の好みに修正し、A4版1枚の最終承認を得るのに1週間も時間を要してしまったということがある。しかも、最終承認者の取締役は結局のところぼくが最初に作成した文書を一番良いということでそれを採用して承認したのだからお笑いである。
そこにはそれぞれの役職者の面子や保身、組織としての生産性の低さなどの問題があることは言うまでもないが、その会社ではそれが大切な仕事なわけである。

日本人のこのような「べき論」「厳密性」「完璧性」に対するこだわりの強さは世界に冠たるものがあり、日本企業や日本人の競争力の源泉でもあることに間違いはないが、特に外国人と仕事をする上では、このこだわりを押し付けてみても当然、行き過ぎると自分の首を絞めることになるわけだし、この点に注意が必要な段階に日本の社会は来ているような気がする。

犯罪の重さも「量」で考える中国

日本社会は「スジ」を基準にものごとの判断をするので、「何が犯罪か」は明確だ。法律に違反することは、即、犯罪である。一方、中国はというと「量」を基準に判断をする傾向が強い社会なので、「犯罪であるか、ないか」は犯した行為の「量=大きさ」の影響を受ける。
わかりやすく言ってしまうと、中国社会では「法律に違反しているが、社会的影響が大きくない」ことは「犯罪」ではない、という考え方をするらしい。例えば、中国でもお金を盗むことはもちろん社会通念として悪いことであるし、違法行為だが、俺を刑法の理論では「犯罪」と見なさない。一定以上のお金を盗んで初めて「犯罪」になる。
日本人が聞いたら、「えっ」と思うかもしれないが、中国の刑法学者が言っていることなので間違いはないだろう。
こういう話を耳にすると、事件や犯罪の加害者にならないことは当たり前のことであるが、被害者にもならないように、日頃から自分の身は自分で守るということを改めて考えさせられる。

次回へ続く・・・。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます!


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