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大人が手本であること

「ラクダのコブの中には水が入っていてね、砂漠をいく人はね、喉が乾いて死にそうになった時、そのコブを切って水を飲むために、ラクダを連れて行くんだって。ラクダはコブを切っても死なないんだってよ。」

小学校低学年の時、そんなことを言った同級生がいた。「へー」と思ったわたしはそれを信じた。そして照りつける太陽と舞い上がる砂の中で、おもむろにナイフを取り出し、ラクダのコブをサックリと切り取り、水を飲み、命を長らえる旅人を想像した。両親にその話をしたら、二人は笑いながら「図鑑でよく調べてごらん」と言い、さらに付け加えた。「誰がそれを言ったのか、教えてくれた子に聞いてごらん。その人が何を証拠にそう言っているのか、聞いてみたらいいよ。」両親は「鵜呑みにするな」と言いたかったのだろう。わたしがその通りにしたら、その子は「お父さんがテレビで見たって言ってたもん」の一点張りだった。

イギリスの放送局『BBC EARTH』の番組を見るのが好きだ。自然科学分野のドキュメンタリーを執念とも言える精度で追求し、見せてくれる。
今朝の番組は砂漠の話だったが、「フタコブラクダは、栄養の貯蔵庫のように、脂肪をそれぞれのコブに最大45kgも貯めることができる。」というナレーションを聞いた。画面には、コブにカラフルな布をかけられたラクダと、共にゆっくりと砂漠を歩く人が映し出されていた。わたしはそれを見て、小学生の頃を思い出した。友人たちは時々、大人から聞いてきたという話を嬉々として教えてくれた。

「ラクダのコブには水が入っている。」と聞いたときは、単に「へー」と思ったが、「おっぱいの大きな女の子は、脳みそがおっぱいに流れ込んでいるから、頭が悪いってよ」と聞いたときは、どうやったら脳みそがおっぱいに流れ込むのか、人体とはいったいどういう仕組みになっているのだろうかと考えた。もともと脳みそが入っていた頭蓋骨は空洞になるのだろうか。それとも何か水っぽいもので満たされたりするのだろうか。そんなことをぼんやり思っていた。「男は頭で考えるけど、女は子宮で考えるんだって」という話には、「わたしは頭で考えているのだが?」と思って「子宮ってどこよ」と聞いたら「ここ!赤ちゃんが生まれるところ!」と、その子は下腹を指差した。わたしは「なるほど、赤ちゃんがお腹にいると、そこには脳がもう一つあるわけだから、母と子のつながりによって、何かしらの考えや思いというものが下腹部にも存在するというわけか」と考えた。だから自分たちのように、赤ちゃんがお腹にいない女の人は頭で考えているのだな、と勝手に解釈した。赤ちゃんといえば、近所の姉妹と一緒にお風呂に入ったとき、そこにいた全員のおへその下にうっすらと、一本の線のように産毛が生えているのを見て、「赤ちゃんが生まれるときは、みんなここを切って出すんだってよ」というその子の話を信じた。「うちのお母さんがそう言ってた」というからには、全ての出産はそのようにして行われるのだと信じた。切るって痛そう、やだなと思った。

もちろん、そのどれもが科学的に間違っている。おっぱいの話や子宮で考える話に至っては、科学的根拠がないばかりか、倫理的に完全にアウトだ。ただ、それが間違いであるとはっきりとわかるようになるまでのほんの数年間、わたしは子ども心に「そんなものなのかなあ」と思っていた。今の時代、「そんなものかなあ」と思ったまま大人になる人はいないと思いたいが、そうでもないらしい。

情報のあふれる世の中で、意図的に、あるいはなんとなく、情報の取捨選択をやめた人たちがいる。最初に聞いた情報、あるいは自分に都合の良い情報だけを信じ、真実、事実については知ろうとしないか、不都合だとわかると目をつぶってしまう。「差別」に関する原因は、そういった構造なのだと思う。聞いてきた話を鵜呑みにする。「こんな目にあった」と体験したという人の話だけを信じ、その背景を知ろうとしない。時として、直接体験した人の話ではなく、又聞きの又聞き、みたいな都市伝説を信じている人も多い。

例えば「おっぱいが大きい女性」と「頭が悪い」を直結させる数式のようなものを刷り込まれ続けた世代がある。「国籍」と「犯罪」、「出自」と「利権」といったように、「人種」、「病気」、「年齢」、「容姿」、「学歴」、を根拠のない「恐怖」や「嫌悪」と結びつけている。歴史的、政治的な事実に憶測も加えながら、その考えを塗り固めている。

そしてその世代が、日常の何気ない会話の中で、それが常識であるかのように、次の世代に刷り込んでいく。何も知らない子どもたちは、身近な、信頼する人の言うことを信じて疑わない。それが無意味な敵意だと気づかないまま大人になっていく。だからこそ、公的な「人権学習」は必要なのだと思う。世界人権デーが近づくと、学校では「人権学習」の授業が行われ、その授業参観と懇談会が行われる。残念ながら、わたしのムスメが通った小学校や、いま通っている中学校では、その時の保護者懇談会の出席者はクラスの4分の1である10人にも満たない。「自分には関係ない」「難しくってよくわからないから出席しない」と言う人が多い。難しい問題だからこそ、みんなで考えていくことに意味がある。

あの日、ラクダのコブの話をした時、父と母が、「そうかもしれないねえ」と、単に子どものファンタジーと笑って済ませずに「ちゃんと調べたほうがいいよ」と言ったことが、今になってどれだけ大事なことだったのかがわかる。残念なことだが、世の差別は一朝一夕にはなくならない。大人になったわたしにできることは、やはり「調べてごらん」と子どもたちに言い続けることだと思う。

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