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フィラデルフィアのバス停で | 短編小説

「さっさと国へ帰れ!アジア人!」

市庁舎の近くの横断歩道で、信号が青になるのを待っていた倫子のりこ は、その叫び声が自分に向けられている、ということを理解するのに少し時間がかかった。

その声は、信号の向こう側で、ボロボロの自転車に乗ったホームレスらしき風貌の黒人の男が、自分に向けて叫んでいたものだった。補足すると、「アジア人」の前に、Fから始まる英語のスラングワードも加えられていた。

倫子がアメリカのフィラデルフィアに留学して来て半年が経とうとしていたが、倫子はこの国で初めて、自分があからさまに人種差別を受けたのだと理解した。

そのことを理解すると、ショック状態の次に、行き場のない腹立ちがやってきた。なぜ自分が、ただ横断歩道で信号待ちをしているだけでそんな暴言を吐かれなければならないのだ。

ムカムカとした気持ちで、倫子は自転車で走り去っていく男に怒りをぶつけたい気持を堪えながら、その男と視線が合わないように見ないふりをした。

この後、あの男に何かされるのではないかと言う恐怖も感じたが、幸いその男が戻ってくる様子はなかった。 

******

倫子は、たった今起きたことを頭の中で何度かリプレイさせた。
あの男は私のことを「アジア人」と言っていたが、もしかしたら彼は自分のことをチャイニーズだと勘違いしたのかもしれない。

この国では、職を失ってホームレスになった人が、移民してきた中国人たちに自分たちの仕事を奪われたと思っているらしい、という話を語学学校のクラスメートから聞いたことがあった。

職を失う理由はそれだけではないだろうと倫子は思ったが、この数ヶ月、アメリカに住んで感じていたのは、人というのは、思ったよりも浅はかで単純な考え方に支配されていることがある、ということだった。

様々な人種や民族、宗教の人が入り混じって生活するアメリカという国の仕組みや考え方はとても複雑だ。しかし、だからこそ逆に、誰にでも理解できるように、よりシンプルに説明できるようにする必要もあるのかもしれない。

しかし、倫子はまだこの社会での生き方、振る舞い方までは理解しきれていなかった。

倫子は公衆の場で他人から怒鳴られるという屈辱的な経験をし、胸がざわついていた。早くアパートに帰り、一人になって落ち着きたかった。

チャイナタウンから1ブロックほど離れたところに、バス停があることを倫子は思い出した。そこからなら、アパートまで一本で帰れるバスが来る。倫子はバス停に向かって歩き始めた。

バス停には誰もいなかった。ほっとした倫子は、ベンチに腰掛けて、目を閉じた。そして、気持を落ち着けるためにゆっくりと深呼吸をした。

さっき、倫子が信号待ちのときにいきなり怒鳴られたのは、その日の授業が終わり、少し寄り道をして、いつもとは違うルートで家に帰る途中の出来事だった。

あーあ。なんでこう、うまくいかないことばかりなんだろう…。

倫子はため息をついた。留学してきて半年。
必死で新しい生活に慣れようとがんばってはいたが、早口のアメリカ人の話す英語を聞き取るのは至難の技だし、語学学校で毎日のように英語を勉強していても、思ったより上達しない。

留学する前に想像していた楽しい生活とはまるで違うことばかりの連続で、倫子はここのところ少し疲れていた。

「今頃、日本は朝だなあ。みんなそろそろ起きてる頃かなあ」
倫子は日本にいる懐かしい人たちの顔を思い浮かべた。 

******

ふと、さっきからもう何十分も経っているのに、ちっともバスが来ないことに倫子は気づいた。

バスが時間通りに来ないなんてことは、この国では日常茶飯事ではあるが、それにしても今日はいつもより随分と時間がかかっている。

いつの間にか、倫子の他にも5、6人の人たちがバスを待っていた。
その人たちもさっきからバスがやって来るはずの方向を見て、まだか?まだか?という顔をしている。

「さっきから20分近くも待っているのに、一体今日はどうしたんだ?」
誰かがそう言うと、待っている人たちも皆ざわざわとして、隣に立っている人たちと文句を言い始めた。

20分、30分…。
日も暮れてきて、風がぐんと冷たくなり、倫子の体も冷えてきた。そして、とうとう雨がぽつぽつと降り出してきた。みんなが代わる代わる、空を見上げたり、バスが来るはずの方向を見る。

そして、ついに、遠くのほうでバスらしき乗り物のライトがキラリと光るのが見えた。だんだんとその光が近づいて来る。それは、まさしく倫子や他の人たちが待ちわびていたバスに間違いなかった。

「イエーイ!!みんな、とうとうバスが来たぞ!おめでとう!」

誰かがそう言うと、今度は他の誰かがヒューヒューと口笛を吹いたり、大きな声を出している。拳と拳をぶつける仕草をする黒人の男の人たち。みんなが好き好きに喜びを表現していて、すごい盛り上がりだ。

遅れていた路線バスがやっと来たという、ただそれだけのことなのに、バス停にいた人たちみんなが、まるで独立記念日の花火があがった時のように大喜びしている。倫子もみんなの盛り上がりにつられて、思わず笑顔になっていた。

******

「良かったわね、やっとバスが来て。あなた、一番最初から待っていたでしょ?さっきから寒そうにしていたから心配していたのよ」

倫子の隣でバスを待っていた、陽気そうな太った黒人のおばさんが、倫子にやさしげに話しかけてきた。倫子は、知らない人が自分のことを気遣ってくれていたことに驚いたが、その暖かい言葉がとても、とてもうれしかった。

「大丈夫です。気にしてくれてありがとう」と、そのおばさんに笑顔でお礼を言った。

倫子は少し前に、自分が道で知らない男に怒鳴られたことなどすっかり忘れていた。知らない人同士が一丸になって、待ちわびていたバスが来たことに大喜びする、という出来事のインパクトのほうが、ずっと大きかったのだ。

バス停にバスが着くと、黒人の運転手さんは「ソーリー」と、乗ってくる人ひとりひとりに遅れたことを謝っていた。

世の中にはいろんな人がいる。
確かに、アジア人だからという理由で敵対視するような人もいる。でも、こうやって当たり前に、誰にでも一人の人として、暖かく接してくれる人たちの方がもっとたくさんいるのだ。

倫子は暖かいバスの座席につくと、皆が大きな声で一日の出来事を報告しあったり、家族に電話したり、ヘッドホンもつけずに音楽を聴いたりする様子を眺めた。そして、この町の、いつもの日常に戻って来れたことにほっとした気持ちになった。

倫子はふと、いつもバスにたくさん乗っている黒人の人たちが何を話しているのか、聞き取れている自分に気がついた。あの独特の英語のアクセントに、耳がすっかり慣れていたのだ。

ああ、そうか。私、気が付かないうちに、ちゃんとこの町に溶け込めていたのかもしれない。

倫子はそっと目を閉じて、バスの乗客たちのおしゃべりを、心地よいBGMのように聞いていた。

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