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JDL2016感想「どこからきたか等身大」

2016年5月4日(水)にJuggling Donuts Live 2016(以下JDL2016)を観ました。「どこからきたか等身大」というテーマで、感想を書きます。

1 等身大であること

JDL2016が他の年代のJDL、というより他の演劇的(物語的)ジャグリング舞台と違うところは、等身大であるということです。

今までの演劇的ジャグリング舞台では、異世界が設定されていました。なぜなら、ジャグリングは日常的な行いではなく、またその演者も遠い存在だからです。その溝を埋めるために、「普通の人が異世界に迷い込む」という設定がとられることもあります。

しかし、今年の設定は「自販機のジュースを飲むと何故かジャグリングができるようになる」です。

自販機という存在がなんだか、現実的です。また、そのジュースを飲んでも「何かが大きく変化する」というわけでもなく、ジャグリングがすこぶるうまくなるだけです。悩みを抱えたサラリーマンも登場します。また、その演者が日常生活で普通に聞いていそうな曲をBGMにパフォーマンスします。ほぼ歌詞のあるJPOPです。

なんだか、イマドキだなって思いました。新しい風をかんじました。

さて、その新しさはどこからきたのでしょうか?
その手がかりとして、この作品の創作方法、「演出家の不在」に注目しました。

2 演出家の不在

実は、僕もこのJDLに、2012年の時出演していて、今年のぶんもたまに顔をだしていたので、作り方はなんとなくわかります。

それで、その創作方法には特徴があって、演出家が不在だということです。
いや、全然悪いことではないんですよ。条件さえ揃えば、いいことな気がする。

大学生が中心だとはいえ、今年で16回目となるきちんとした公演に、そういう役割が存在しないというのは、なかなか珍しいことではないでしょうか。

じゃあ、どうやって、全体を覆う世界観を考えたり、具体化していくかというとそれは、みんなの「民意」だったり、長年団体で培ってきた知識を参照するんです。

これって、代表はたてないっていう政治団体SEALDsだったり、少し前によく聞いた集合知とかビックデータなんかを思い出します。

演出家っていうと、その作品の世界をきめてしまう「代表者」、「権力者」っていう一面があるんですよね。

それで、なんだかわからないけど、JDLにはそういう演出家という役割がいなくて、何年もそれでやってきて、うまくいったりいかなかったりしたけど、それはそれで熟成してきて、たまたまこの年の演者たちや、時代にフィットして「等身大」っていう新しさがでてきたんじゃないかな、って僕は思ったわけです。

視点をかえれば、演出家がいないっていうのは、逆に「みんなが演出家」っていうことでもありますから、そこから生まれる関係性の中で、偶然でてきた新しさなのではないでしょうか。

3 創作者のいない創作

まあ、ここからは、脱線なんですが、これからの時代、ある種の「民意」で作品ができあがるという傾向はふえていくのではないのでしょうか?

AIという人工知能が書いた小説がコンクールの1次審査を通過したという話題がありました。ああいう人工知能って、今までの膨大なデータを参照したりするわけですから、ある種の「民意」みたいなものだと僕は思っています。

近い将来、作曲だったり、脚本だったり、あるいは演出だったりといった「クリエイティブな活動」にも、人工知能が高いパフォーマンスを発揮するでしょう。そして、もちろん新しい表現が生まれてくるはずです。僕はそれはとても良いことだと思っています。

また、そういう無作家的な、「創作者のいない創作」にジャグリングは相性がよいとも思っています。なんとなくだけど。

それに、ジャグリングはまだ演劇やダンスなど他の舞台芸術より歴史が浅く、いろんな実験の余地があるので、そういう新しい活動にも先陣をきっていけると面白くなるんじゃないかな。

てか、そのうちやりたいな。

4まとめ

JDL2016の新しさは「等身大」という感性だ。それは、「演出家の不在」という創作方法がうまくこの世代にかみあったことで生じた。このような「創作者のいない」創作を追求した作品がでてくるともっとジャグリング作品も面白くなるかも?!


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