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みんなにはあるのに、どうして私には、「スルースキル」がないんだろう。

ずき、ずき、と。
性懲りもなく、心に堪えることが、多すぎる。

そういう、自分の性質に気づいたのは、物心がついてすぐだった。

「もえりちゃん、大人しいよね〜」
ずきん。
「声小さいよね」
ずきん。
「もっと言いたいこと、言えばいいのに」
ずきん。
「自信がないから、声が小さいんだよね」
ずきん。

「そんなの気にしなくていいじゃん」

ずきん。

消極的な性格や、声の小ささ。
言った本人たちはとりわけ私をいじめようとも傷付けようとも思っていなかったに違いない、発言を私はほとんど鋭利な刃を向けられた気分で聞いていた。
特に、性格に関することを言われると堪える。

人に対して強く出られないことも、
声が小さいことも、
消極的なことも、
そんなこと、小さな頃から全部知っていた。
知っていたし、コンプレックスに感じている。

どうして私は、声が小さいんだろう。
とうして私は、積極的になれないんだろう。

大人は「まだ小さいんだから、性格のこと言われたって、対して何とも思わないだろう。これで癖が治ってくれればいいのだけれど」とでも思っているのだろうか。
当の本人からすれば、その真逆で、大人に刷り込まれた「あなたは声が小さい」という烙印を、ずっと抱えて生きているというのに。

先生から笑って言われた「もっと積極的に」という言葉、友達から言われた「そんなの気にしなくていのに」という言葉の一つ一つが、ぐさりと深い傷をつけることもあれば、少しずつ皮膚を削っていくような痛みを伴うこともあった。

今でも忘れない。
二年前。
小説を書くのが趣味だった私は、とある小説投稿サイトで、恋愛小説を書いていた。
10万字は超える長編小説で、最後まで読んでくれた人から様々なコメントをいただいた。
多かったのは幸いにも、「面白かった」「続きが気になって最後まで読んでしまった」という言葉だった。
素直に嬉しくて、読んでくれてありがとう、何ヶ月もかけて、最後まで書き続けて良かったと思える瞬間だ。

しかし、その中で、忘れられない言葉をいただいたことがある。

「胸糞悪い」

から始まる、その感想文。
ずらりと並んだ、苦言の数々。
小説投稿サイトには作者に「感想」を送る機能がある。
知り合いでなくても純粋に作品を読んでくれた方の中に、懇切丁寧に良い点・悪い点と評価をくださる方がいるのだ。

感想なので、もちろん良い感想もあれば、「もっとこうしたら」というアドバイス的な感想もあり、様々。感想を楽しみに書いている人もいれば、たいして意識しない人もいるだろう。
私はどちらかと言えば、「感想を楽しみにしている派」だった。

胸糞悪い。

確かに、その時書いた小説は、恋愛小説で、浮気だの復縁だのと、見る人によっては感じ悪いこともたくさん書いてあったと思う。

ただ、それ以上に、突然投げかけられた自分の作品への刃に、頭の中が真っ白になった。

友達に話したら「そんなの、無視すればいいんだよ」と至極真っ当な意見が返ってきて、「その通りだ」と真面目に思った。

きっと、「胸糞悪い」という感想をくれたこの人は、ストレスが溜まっていて誰かにぶつけてみたかったんだ。たまたま私の小説を読んでくれて、読み終わったところでちょうど良い的を見つけたわけだ。
しかも、嫌な思いをしながら最後まで読んでくれるなんて、優しい人じゃないか。
私だったら、気に入らない物語なら途中で読むのをやめている。
うん、そう。
だから、気にしなくていい。

気にしなくていい。

はず、だったのに。

私は結局、その感想を見た瞬間から、なかなか次の作品を書けなくなっていた。

「また、胸糞悪いって言われたらどうしよう」
「誰にも面白いなんて思ってもらえなかったら」
「たった一人もページをめくってくれなかったら」

怖い。
文章を書くのが怖い。
否定されるのが怖い。
私の書く物語なんか、きっと誰も求めてない。

一度ダメだと思い込んだ思考は、ぐるぐる、どんどん、悪い方向へと堕ちてゆく。
気にしなくていい。
無視しちゃえば。
頭では分かっていた。
それなのにどうして。
どうして私は、気にしなくていいことの「スルー」ができないんだろう。

自分にとって、重要じゃないことを聞き流す能力、つまり「スルースキル」が、私には圧倒的に欠けていた。
全ての人の言葉を、同じ重みで受け止めてしまう。
最近それを強く感じたのは、一年前に結婚をしてからだ。
私の両親とは違い、主張の強いお義父さんと出会った。
塾と不動産の経営をしているお義父さん。
資金が全くないところから、努力で会社をつくり、入塾者の絶えない塾を築いた、尊敬できる人。
と、最近ようやく、「すごいな」と心から思えるようになったのだけれど、出会ったばかりの頃は、バリバリの関西弁、強い口調と主張に辟易したこともあった。

「みんなで回りたいから、ゴルフ通ってね」
「家買うならうちの近くに土地余ってるから」
「子育て困ったら、うちの職場に預ければいい」

本人は「こうして欲しい」と軽く言ったことを、私はあたかも「強制されている」ように感じた。
九州の実家を離れて、結婚という人生一大イベントを経験する中で、あまりに刺激が強すぎた。慣れない大阪での生活に順応することに加え、今までとはまったく違う「お父さん」である彼を、理解するのにとても時間がかかった。
今でこそ、多少平気になってきたどころか、尊敬できる人であることには間違いないと、受け止められるようになった。
が、当時は迫りくる刺激の中で、大雨のように降ってくるお義父さんの言葉を、傘ももたずに受け止めていた。
お義母さんや旦那からも、「適当に聞き流せばいいよ」と言われているのに、できない。
お義父さんの言うことを、全部聞かなければ。
大事な長男の妻として期待に応えなければ。

私はまた「スルー」する術を求められているな、と思ってしまった。


そんな私の考えが、和らいだのは、社会人一年目が終わろうとしていた時だった。
高校、大学と仲良くしていた友達と久しぶりにご飯にいった。
お互い別々の県で暮らしていたため、その日会えるのが楽しみで仕方がなかった。

久しぶりに会った彼女は、全然変わらない。そのことに安堵しつつ、ご飯を食べながら、お互いの近況について話した。
ほとんどが仕事のこと。
上司とうまくいかない。
仕事は好きなのに、気を遣う場面が多すぎて。
仕事の悩みじゃなくて、人間関係に悩んでいる。

彼女の言うことは私にも痛いほどよく分かった。
うんうん、分かる。そうだよね。それは、辛いよね。

「でも、気にしなくて大丈夫じゃないかな」

……あれ。
いま私、なんて言った?
なんで、「気にしなくていい」なんてことを……。

自分でその言葉を言って、ようやく気づいた。
みんな、同じなのかもしれない。
気にしないで大丈夫、という人だって、本当は気にしていることがある。

分かるよ、その気持ち。辛いよね。でも気にしないでおこうよ。

みんな、自分自信、そう思い当たる節があるに違いないけれど、気にしすぎ症候群で悩んでいる人がいたら、同じように「気にしないでいいよ」って、伝えているんじゃないか。

そう思うと、唯一無二の友達だって、いつも自分を励ましてくれている先輩だって、本当は気にしすぎて悩んでいることがあるのかもしれないと安心できる。
大事なのは、降ってくる色んな人の言葉に傘をさしてシャットダウンすることではなく、自分にとって必要な言葉をすくっていくことじゃないだろうか。
晴れた日に綺麗だと思う花を見つけて摘んでいくように。

他人の言うことには、もちろん真剣に耳を貸すべきだ。
特に自分よりも長く生きている人の言うことならなおさら。
でも、それが自分に「合っていない」「必要ない」というのなら、一生懸命聞きすぎなくていい。
その言葉が「いる」か「いらない」かを決めるのは、他でもない自分自身なのだから。
自分の中に、“判断”の軸が持てるようになるまで。

私は今日も、大事な言葉をすくっていく。

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