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目に見えない言葉と生きる

某出版社有名編集者による、フリーランスライターへのセクハラや、Netflix人気番組の女性出演者の自殺。

心の底から悲しみと怒り、そして悔しさを感じる。私にとっては他人事では済まされないからだ。

なぜマスメディアはこれらの出来事を報じないのか。なぜ真相を究めないのか。なぜ議論しないのか。
私にはまったくと言っていいほど理解できない。

ただ一つ言えることは、

もしこれらの事件の被害者が男性だったら、大きく報道されたかもしれないということ。

この男性的マッチョイムズで出来上がってしまっている社会において、「女性が被害を受ける」ということ自体が無視されてしまっていることを示す。
もし男性が被害を受けていたら、どんどん報道を大きくさせ、どんな手を使ってでも真相を暴こうとするだろう。
(※男性は被害を受けないということではない。どのような人でも被害を受ける可能性はある。しかし、女性が被害を受けるケースが圧倒的に多いのはデータとして出ている。)

女性は泣き寝入りしなければいけないのか?傷をつけられたまま、生きるか死ぬかしなければいけないのか?

「もっとうまく断ればよかったのに。」「誹謗中傷なんて無視すればいいよ。」「女性らしくしてればよかったんだよ。」「女性は〇〇のほうが幸せだよ。」「そんな過去、気にしないで笑い話にすればいい。」

どうして世の中は被害者側に変わること強いれ、加害者側には何も言わないのか。


そんな私も、泣き寝入りを強いられた側だった。


1年前、就活をしていた時だ。とある某大手メーカー会社の最終面接でその会社の社長と二人きりで面接をした。

当時院生だった私は、面接で自分の研究分野であるフェミニズムについて話した。フェミニズムは男性嫌悪ではないこと。様々な性のあり方を肯定する思想であること。その人がその人らしく生きることをバックアップする思想であり、それがこれからの社会にどれだけ必要なことかを説明した。

するとその社長はまず私にこう言った。

「そもそも文系なんて4年でよくない?橋本さんだけだよ22歳過ぎて新卒なのは、へへへへ。」

真向から否定し、年齢のことまで馬鹿にされた。
しかし当時の私はその場に必死だったため、

「真向から否定して、私の反応を見たいんだろう。」
と考え、その場を笑ってうまくやりすごしてしまった。

すると、社長の私に対する否定のオンパレードが始まる。何に関してもいちゃもんをつけてきた。それでも私はなんとかやり過ごそうと折れずに受け答えをしていた。それを続けていると、社長は私にこう言った。

「フェミニズムとか言ってるピーコックさんみたいにな女性は、年上の男性と結婚したほうが幸せだね、へへへ」

私の脳は混乱した。

「これってもしや、セクハラ…?いや、やり過ごそうやり過ごそう。」

私は混乱した自分の脳を、その場をやり過ごすことで麻痺させたのだ。
自分の中の正常な判断や気持ちを否定し続けたのだった。

最後の最後まで私に対して気持ち悪い笑みを浮かべながら否定してきた社長との面接はその場をやり過ごしておわった。

「あ、これは受からないな。」

と思い、本社を後にした。その瞬間、受からないだろうという感触と共に、どこからか抑え込んでいた感情が滝のようにあふれ出てきた。私はこの感情は単なる悔しさからのものだと思っていたが、違った。

涙が止まらなかった。私のすべてを否定してきた言葉が脳の中をぐるんぐるん駆け巡った。帰りの電車のホームで母親に泣きながら電話した。

いつだろう、面接での経験がセクハラだと気付いたのは…。でももう気づいたときには、私の心と体はボロボロになっていた。
言葉という形にはならないものでセクハラをされたことにより、自分自身はもちろん周りの人間も気づかないところで、私の心と体はどんどん傷つけられていった。

「どうせ自分が悪いんだ。もっと相手に理解できるように話さなかったのがわるかったんだ。」

ベッドから起きようと思っても起きることができなくなり、起きても朝ごはんは食べられなくなり、どこにも出かける気力もなくなった。ひどいときには、脳裏に包丁のイメージがよぎる。
歩いてても足元がふわふわしたようで地面を踏んでいる心地もしない。
夢ばかり見て、ひどいときには夢にうなされることもあった。

そう。私は抑鬱状態になってしまった。本当に本当に心の底から苦しかった。「助けて」なんて言えなかった。泣き寝入りするしかなかったのだ。フェミニズムを勉強してきた自分自身さえも否定しまった。

母親からも「腐るな!」と励まし半分の言葉をもらったが、当時の私には到底無理だった。「気にせず次に切り替えろ。」という言葉がごもっともだったが、どうやって切り替えればいいかもわからなかった。

健康状態が取り戻した今でも悔しくて悔しくてたまらない。あんなことさえなければ自分の人生は変わっていたかもしれないとも時々思う。

だから、今回の出版編集者のセクハラと、Netflix人気番組出演者の自殺は他人事とは思えなかった。

目に見えない言葉が人を傷つけた時ほどタチの悪いものはない。傷つけられた人のその傷は完治することはない。一生、付き合っていくものだ。私も今もその傷を背負いながら日々生きている。

立場の弱い人間だから、女性だから、権利を持つ人間は何を言ってもやっても構わない、なんてことは全くない。その人のことが気に食わなければ、なんでも言っていいなんてありえない。

「気にしなければいい。」「うまくかわせばいい。」「そんな話笑い話にしてしまいなさい。」

気にするか気にしないかはそれを経験した被害者側に決めさせてほしい。どうして他人にそう言われなければならない?それは被害を受けたことをなかったことにしてしまう可能性もはらんでいるのに。

言葉などを通して人々に出来事について考えるきっかけを与えるメディアに属する人たちの身に起こった悲惨な出来事を、なぜマスメディアは報道しないのか。マスメディアだからこそできることはたくさんあるのになぜだ。守れた権利や命があったかもしれないのになぜだ…。

悔しくて悔しくてたまらない。

だから私は今回noteを通して、自分の身に起こった出来事をもとに私の考えを述べさせてもらった。これが良いか悪いかは自分でもわからない。覚悟のうえだ。

私は絶対にこの社会を変えてみせる。
私の生きる道は私が決め、私らしく生きる。
「生きてるだけで最高」とみんなが言えるような社会にしてみせる。

みんなで生きていこうね。

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