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本に愛される人になりたい(49) スーザン・ソンタグ著「反解釈」

 学生時代から再読しては反芻し、考えを整理する本があり、本書もその一冊です。
 本書はソンタグさんの評論や批評をまとめたもので1966年に出版されました。表題にある「反解釈」は20歳代の私にとり目から鱗で、出版から半世紀以上たっても書棚から取り出しては再読しあれこれ反芻しています。
 日本語翻訳版ではわずか20ページほどの批評ですが、その筆鋒は心地良いほど切れ味が鋭く、モヤっとした頭をスカッとさせてくれます。
 例えば…「現代における解釈は、つきつめてみると、たいていの場合、芸術作品をあるがめまに放っておきたがらない俗物根性にすぎないことがわかる。…それを、解釈することによって、ひとは芸術作品を飼い馴らす」(ちくま学芸文庫)
 日々、事件や事故などのニュースが伝えられますが、マスメディアに登場される批評家や評論家やコメンテーターの方々の話し言葉を聴いていると、「反解釈」で語られた視座以前の語り口だなと思うことがしばしばあります。
 例えば、ある重大事件で逮捕された犯人の動機を詮索するのが流行っています。視聴者や読者が喜ぶ為なのかは分かりませんが、その犯行動機を、一つの綺麗な物語に設えようとしているように思えます。生い立ち、家庭環境、社会性…などなどを上手に織りなし、一本の反物にし、そこから裁断と縫製を経て、視聴者や読者に「なるほどな」と思わせ満足させる。ところが、人間は四六時中整然と論理だった言動などしている訳がありません。このnoteを読んでおられる皆さんも、日常生活の自分の思考や行動を振り返ってみて頂ければ理解できるはずです。かなりブツ切れな人間の言動のとおりで一つの綺麗な物語に成りにくいと分かると「衝動的」とか「分裂的」などという言葉で断罪するはずです。
 ソンタグさんの「反解釈」を演繹的に使えば、上述したようなマスメディアの送り手側の問題点だけでなく、私たちの日々の考え方の問題点も見えてくるようです。
 誰かが作り出した「解釈」を無批判に受け入れ、様々な事象をさらに「解釈」しているのが、私たちなのかもしれませんし、私たちは誰かの手による、目に見えない「解釈」という監獄の囚人になっているのかもしれません。中嶋雷太

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