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私の「美」(14) 「サグラダファミリアは美しいのだろうか?」

 とても浅薄な仏教徒(浄土宗)の私が、カソリック教徒のための教会のことを、あれこれ言うのは失礼だと思いますが、ここは宗教性を横に置かせていただき、あくまで私の「美」という観点からサグラダファミリアについて、少し綴りたいと思っています。
 以前の仕事がらもあり、バルセロナには何十回も足を運び、出張のたびにサグラダファミリアを遠望したり、そのなかまで入ったりしました。
 サグラダファミリアに初めて訪れたのは、1982年の民主化からまだ落ち着きのない1980年代後半のことで、1992年のバルセロナ・オリンピック開催話がようやく巷で話題になっていたころかと思います。
 最初の印象は「圧倒的」でした。
 高層ビルのない、どちらかというと平坦な港町のバルセロナの空にドンと突きでた魂と肉塊のうめき声のように感じました。その感覚をあと押ししていたのは、事前に読んでいたアントニ・ガウディについての書物や見ていたテレビ番組だったのかもしれませんから、純粋に私個人の感覚ではなかったはずです。
 それ以降、何度となく、サグラダファミリアを目にすることになりましたが、徐々に最初に見た驚きは消えてゆき、バルセロナの街の風景の一部を構成する建造物だという感覚になってきました。城下町で、視界のどこかに天守閣が入るけれど、そのたびに意識するわけではないという感覚に似ているのかもしれません。
 では、サグラダファミリアに美を感じるのか?と問われると、安易に即答できないジレンマがあります。
 若い女性が何を見ても「可愛いい!」とするような気軽なものでも、歴史資料を読み込み「なので素晴らしい」と美意識という感覚から大きく離れたような面倒なものでもない、複雑な感じの美を感じるといえば良いのかもしれません。
 2026年に竣工される予定のサグラダファミリアですが、着工された1882年からずっとバルセロナという街とともに育ち、カタラン人たちの悲哀の歴史とともにあったと考えると、心臓を抱えた生きている静物なのかもしれません。
 サグラダファミリアについてはこれまで数多くの書籍やテレビ番組などか世に提示されてきましたが、いずれもガウディの美学やサグラダファミリアを構成する様々な造形についての註釈ばかりだったかと思われ、私が「生きる静物」と言ってもピンとこないでしょうが、サグラダファミリアから感じとる美とは、まさにそれなのです。
 リーガ・エスパニョールで毎シーズン、クラシコという試合があります。F.C.バルセロナとR.マドリッドが対戦する試合で、F.C.バルセロナの本拠地であるカンプ・ノウというスタジアムで何度か観戦したことがあります。試合開始の1時間前には、スタジアムの周囲はF.C.バルセロナのファンの群れが、早くもヒート・アップし、文字どおりのお祭り騒ぎとなります。いわゆる祝祭です。試合観戦が終わり、30分ほど歩いてホテル近くのレストランに直行します。すでに夜12時を過ぎていますが、夕食時間がかなり遅いバルセロナの人たちは、ガヤガヤと楽しく呑み語らっていて、その渦に巻き込まれながら試合の感想などを知人たちと交わしていると、気持ちはカタルーニャ人になった気がしてきます。スペインの長い歴史に翻弄されてきたはずのカタルーニャ人の生きる力は、バルセロナの街の地熱となり胎動となり、時にクラシコで噴火するのかもしれません。
 サグラダファミリアが造形的に美しいというよりも、サグラダファミリアという存在自体、生きる静物であるその姿に美を感じる私がいます。中嶋雷太

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