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北海道に居ながらにして、世界中の映画を体験するー平和の恵みを、当たり前と思うかたまたま偶然と思うかー


わたしは、札幌に住んでいる。新型コロナ感染症が広がる前は、年に数回は、各地へ旅行していた。主にファイターズのビジター観戦のためだが、函館、仙台、東京、大阪、神戸、名古屋、福岡、広島… 見知らぬ土地、食べたことのない美味しい食べ物、体感する全てが新鮮で楽しかった。

同時に、知らない所にいるのは、不安と緊張が伴う。ドキドキして疲れる。だけど、その刺激が、大抵の場合、単調で退屈なーつまりは平和な人生には、必要で、とても大切なことなんだと、今さらに思う

2年前までは当たり前に出来たことは、もう出来ない。
2年前も、その前も、映画はよく見ていたと思うが、この2年は、前より映画館に行く回数が増えている。

そして、これは意識して、いろんな国、知らない国のことを知れるような映画を選んで見ている。上のリンクは、最近みた諸国の映画。

わたしは、映画であれマンガであれ何であれ、虚構の世界に触れることは「体験」であり「出会い」だと考えているので。どうせ1000円1500円払うのならば、よく知らない場所の知らない話の方が得のような気がするから?
違うかもしんないけど。より未知の体験は出来るだろう。

今日見てきた『クレッシェンド』は、長い長い間、紛争と戦闘の続く、イスラエルとパレスチナの若者たちが南チロル(イタリア?オーストリア??)の山の中でオーケストラを創ろうとする音楽映画。アラブ人とユダヤ人とドイツ人が出てくる。

イスラエルがどこにあるか。日本人の多くは、多分知らない。わたしだってエジプトの近くのあの辺り…とぼんやりしか思い出せない。一応、イスラム教とユダヤ教キリスト教の「神様の元は同じ」だということは知ってるし、何冊か関連本は読んではいるけれど…。

と、たった今、思い出した。

この本は、数年前に働いていた小さなスーパーのレジで、いつもお買い物をしてくれる北大の元教授の先生が「読んでみて」と貸してくださった。
全く知らずに読んだ内容は、1000年前のエルサレムの物語だった。
原題は、18世紀ドイツの戯曲でエルサレムを奪還したアラブ人のスルタンとユダヤ人の賢者ナータンが寛容の道を探ろうとする話…。ナータンの娘は、十字軍の騎士に許されぬ恋をしてしまう…。

本当に今の今まで読んだことも忘れていましたが。
21世紀の『クレッシェンド』に相似している。18世紀にはナチスドイツもまだ存在しなかった、その国で作られた戯曲、ナータンの苦悩は、変わらずに存在し続けているのか…。

でもこうやって、知らない間に自分の中で蓄積された知識や記憶が、必然のように繋がるのって、ただの偶然にしても。なんとなく何でもやっぱり無意味じゃないんだなと思わせてくれる。

意識しようとしまいと、意図であろうとあるまいと、わたしたちは、どうであれ繋がって生きているしかない。分断され続け、まるで繋がることなど無意味と投げ出されても。現実には、全ては繋がっている。
争おうにも、それが生きてるってことだから。

平和を祈るのって、そんなにお花畑なことですか?
単なる日々を平和に過ごせるのが、当たり前だときっとどこの誰もが思っている。でもある日突然、平和は失われる。

もし、その日が来たら。自分は、どうするんだろう。








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