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「大泉サロンなど、なかった」ー『一度きりの大泉の話』萩尾望都ーから蘇る子どもの記憶は、きっとあなたにも繋がっている。マンガを愛する全ての人たちへ。


今を去ること49年前。ほとんど半世紀が過ぎた昔の話。1972年(昭和47年)わたしは、10歳。小学校4年生。色々なことがあった。鍵っ子になった。隣の仲良しだったえりちゃんが引っ越した。ずい分早い、生理が来た。

そして、生まれて初めてマンガを読んだ。週刊少女コミック。一冊七十円だったか九十円だったか。もう記憶は、さすがに遠く朧げにしかないけれど、マンガ本を手にした興奮は、はっきりと鮮明だ。

そのときの週刊少女コミックには、今から思えば不思議な特集があった。萩尾望都というマンガ家のすでに一度発表された読切り作品が、再録掲載されていたのだ。それも何週間か連続に。

わたしの体験に限るけれど、マンガを読んで50年、週刊少女マンガ誌で、こういう形での再録連載を見たのは、後にも先にもこの時にしか経験がない。といって当時は、それがどういうことなのかはわかってはいなかった。なにしろマンガ読んだことなかったんで。何もかもが初めての経験だったので。

読んだ記憶があるのは『爆発会社』『クールキャット』『ルルとミミ』(1969)(『ビアンカ』『ポーチで少女が子犬と』(1970)は、単行本で読んだのかな…)

この時、やっぱりわたしは知らなかったが、萩尾望都『ポーの一族』のブームが起きようとしていた。評価が高まり、過去作品の再録連載という異例の事態も起こっていたというわけ。

何も知らぬ子どもの読者は、偶然に萩尾マンガの黎明を知り、そして「ポーシリーズ」では順番を飛ばして『小鳥の巣』(初出1973年5月)に、最初に出会うことになる。

今を去ることほとんど半世紀も前の、たった一瞬の出来事を。わたしの脳は忘れ去ることがない。見開きのページ。エドガーとアランが、中洲の学校、小さな巣ーへやってくる物語の扉を開いた、心のときめきを。

1970年代、社会現象として少女マンガブームが起こっていた。「花の24年組」とか「少女マンガ革命」とか聞いたことがある人もいるだろう。中でも萩尾望都は、萩尾シンドロームとすら称されて注目されていた。

特に当時の大学生、成人男性の読者にとって驚きの対象だったらしい。少女マンガ、少年マンガという枠組みを超えた、これまで読んだこともない新しいマンガ的な感じで、相当に盛り上がっていた。

その高熱ぶりは、『ポーの一族』シリーズ開始から76年、アランの死に収束するまで続いていたと思う。っていうのは、当時小学校高学年から中学生になっていく、わたしの過剰で猛烈なマンガ情報収集による記憶の実感。

少女は、熱烈な「モー様」信者であった。北海道の片田舎で、しかし、できる限りの手段を使って情報を収集する。とにかく掲載雑誌を隅から隅まで読む。インタビューやコラムも拾い集める。ブームだったので新聞や雑誌にもちょくちょく載っている。小学5.6年生から新聞を読むようになった。

エドガーがとにかく大好きで、エドガーに関する事柄も集める、イギリス、ドイツ、ヨーロッパについても学ぶ。歴史も大好きになった。モー様があれが好きこれが好きと話を見つける度に真似っこをする。先生おすすめの本やSFを読み漁り、なんとかいう音楽が好きだと聞けば、聴いてみる。

SF雑誌も読む。モー様参加の座談会などもある。子どもだったけど、子どもにもわかる。萩尾望都はすごいマンガ家だと世の中で評価されていることくらいは(そしてその凄いマンガを読んでいる自分も凄いだろうと錯覚する)

週刊少女コミックと別冊少女コミックをそれこそ舐めるように読んでいた。自慢じゃないが小学校のIQ判定テストで全学2番だった。子どもの記憶力は抜群で、さらに「好きなこと」になったら異常値を示すのは、よくあるパターンである。部屋の本棚に並べたマンガ雑誌の端から端まで、作家名とタイトルを記憶していた(来年60歳の今は、読んだ傍から忘れていく…)

もちろんだから「大泉サロン」の話も知っていた。モー様とケーコたん。竹宮恵子先生が、一緒に住んでいてマンガを描いていることも知っていた。少コミにはマンガ家の先生たちの通信欄みたいのがあって、毎号楽しみにしてて。大泉の話も載っていたから。

当時のマンガ家さんたちは、よく互いにアシスタントもやっていて、ケーコたんのマンガにモー様の絵があったり、ユーミン(大島弓子先生)のマンガにモー様の絵があったり(『海にいるのは…』に典型的ですので探してみてね)他の先生のもよくあってコマの隅々を探すのが楽しみにもなっていた。

少女コミックの先生たちは、仲良しでいいなあ。そんでもって少女マンガ革命を起こしてしまう「花の24年組」は、凄いんだよなあって、純心に傾倒していた、あの頃だったからこそ。

遠く離れた北海道に、単なる読者でありながら、気が付いていた。「大泉サロン」が、なくなったこと。モー様とケーコたんの様子が変わったこと。何があったのかはわからないけれど、何かがあって、二人は、別れてしまったことが。たった12歳か13歳かそこらの、わたしにも、わかったのだった。

あれから、ほぼ半世紀。

2016年『少年の名はジルベール』竹宮惠子著 発刊。

2021年『一度きりの大泉の話』萩尾望都著 発刊。

両者ともに長い沈黙を破り、当時の大泉での生活ー70年代を席巻した少女マンガ家の青春を語る内容だが、『少年の名はジルベール』からは、5年間の隔たりがある。

萩尾の『一度きりの大泉の話』は、竹宮の本に書かれた「大泉の話」に端を発し、本人としては、出来事は過去に封印して誰にも話すつもりはなかったのに周囲から「萩尾さんからも事情を話して欲しい」「ドラマにしたい」「本当は何があったんですか」的な要請が相次ぎ、仕事にならない、もう惑わされるのは、これで終わりにしたい、という決断の下に発刊される運びとなったーと本に書かれてある。

同時代の記憶を語りながら、全く事情の異なる、二冊の本。

「大泉の話」は、70年代少女マンガの革命者、竹宮惠子と萩尾望都の話ではない。増山法恵というもう一人の革命家と竹宮惠子、萩尾望都、三人の若い人たちの友情と破綻、記憶の物語だ。「大泉サロン」を開いた人物がいるとすれば、二人を結びつけ同じ家に住む段取りをつけた、増山さん、その人なのだから。

詳しく興味関心のある方は、本を読んでいただけば良いと思う。ただわたしは、両者の本を読み、さらに竹宮惠子自伝『扉は開くよ幾く度も』も読んだ上で、思うのだ。

互いに信じ合っていたはずの友情の輪から、予期せず外される者の苦悩と、意図して外さなければ、生き残れなかった者の苦悩の。どちらを重いとか辛いとか、どちらが正しいとか間違っているとか、何が真実だとか、判定する権利も力も、誰にもないと。

実存する少女マンガ家、一人の人間の記憶としての「大泉の話」は、痛切に心に迫り、わたしが言葉にすることは難しい(野次馬的には簡単すぎるだけに難しい)。

けれども、その痛恨だからこそと言ったらば、少女マンガ史における価値は高く、意味は深くなる。互いの望んだ道を違え、二人が選び歩んだ道は、日本のマンガーひいては世界中に、巨大な影響を与えた。

『ポーの一族』以来、積み重ねられる萩尾マンガとその世界。

竹宮と増山、合作の『風と木の詩』ー美少年ジルベールの存在と少女マンガ表現自体の変化。やおい、ジュネ、BL文化が生まれ育ったこと。

「大泉の話」について。

もしも、この先にわたしたちが、彼女たちの心を理解できる時が来るとすれば。その答えは、ただただ、描かれ続けた、マンガ作品を見つめることだけにある。導かれる道は、そこにしかない。

「作家」とは「作品」にだけ、存在している。本当に、ただ、それだけなのだから。

(文中敬称略)














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