幽霊の居所2―そこにあったはずの―後藤明生『挟み撃ち』と松原団地をめぐる

2008年5月発表

 埼玉県草加市にある松原団地は、旧日本住宅公団(現都市再生機構〈UR〉)が造成した公団住宅、いわゆる〝公団〟である。1962年12月に第一次入居開始、時を合わせて東武伊勢崎線に松原団地駅が誕生している。1964年、東京オリンピックが開催されたその年に、総敷地面積60ヘクタールのA〜D4地区300余棟すべてが完成、競争率50倍の抽選を切り抜けた5926戸が入居した際には、「東洋一のマンモス団地」と謳われた。団地内には小・中学校と幼稚園、診療所、公園やグラウンド、商店もある。郊外の田園地帯に小さな町がひとつ、いきなり生まれたようなものだった。
 棟のほとんどは4階建てで、すべて南向きに整然と並んでいる。団地全体は広大だが、各戸の間取りは六畳と四畳半を組み合わせた1〜3DK、概して広いと言える住居ではく、単身者や少人数の核家族に相応しい。しかし全戸内に洋式水洗トイレとガス風呂(木槽)が完備され、そもそもDK(ダイニングキッチン)という「寝食分離」の発想自体が新しかった。ときは昭和30年代後半、高度経済成長期。公務員の初任給が1万円強の時代に、公団住宅の家賃は5000円以上であったから、住むのは〝若い年齢のわりに収入の高い世帯〟が多かっただろうということだ。ステンレス製の流し台に備えたガスコンロで、母親はフライパンを熱し卵を落とす。彼女の背に声をかけながらテーブルにつく父親と子どもは、自分でオーブントースターの食パンをとり出し、バターを塗って囓る…そのような朝の団欒を思い描かれる若い一家。彼らは「団地族」と呼ばれ、少しばかりハイグレードの生活者と見なされていた。実家を出て東京で大学を卒業し、そのまま都内の大企業に就職した20〜30代の父親たちは、毎朝電車で小一時間かけて通勤する。陽当たりよく位置も高いベランダで洗濯物を干す母親たちも、結婚前は東京のOL。団地の子どもは、地元生え抜きの子どもと遊びも違っている。団地の子は団地内に特有の、仲間と場所と方法で遊ぶのだ。
 地元のしがらみや古い家族の因習に縛られない、知的・都会的と思われていた彼らはしかし、生まれ育った土地に住まいと仕事を求めえず、流出してきた移民であるとも言えただろう。彼らの住まいが、同じ地所の上にも下にも他人の住む、月ごとの借り賃によって保証される空間であってみれば、いずれはまたどこか、さらに新しく良質な住まいへ移っていくことが前提の、まさに仮住まいの人々なのである。渡り鳥の大群が、産卵と子育てのため、然るべき気温の森林や湿地帯へと一斉に飛来し、小さな巣を無数に作る、そしてまた飛び去っていく様にも似る。
 なにしろ松原団地は、田圃を埋め立てた低地帯に建設されている。建設当時の航空写真を見れば、青々と広がる田圃の中に白いコンクリート建造物の整然たる集合が、とつぜん降りてきた空中都市のごとく、照り映えている。*1

* * *

 その松原団地に東中野のアパートから、当時まだ平凡出版(現マガジンハウス)の社員であった後藤明生が、妻と1歳になる長男をともない移り住んだのは、1963年12月だった。ときに後藤31歳。その前年3月に作品『関係』が第一回文藝賞中短篇部門佳作にのぼり、「文藝」復刊号に掲載されている。早稲田大学露文科卒業後、1年を故郷福岡で過ごし(アルバイトと図書館通い)、東京へもどって広告代理店博報堂の企画担当、そして平凡出版の週刊誌編集部員へ転職…のちに自らの作品『笑い地獄』に書かれるような、賑やかで慌ただしい〝業界〟の一員であった。世間一般の目で見れば、まさに「団地族」の名に恥じない若きサラリーマンだ。
 ところが一家の長として妻子を抱え松原団地から出勤するようになってから、後藤は文筆活動を盛んにしていく。1965年に立原正秋のすすめにより同人誌「犀」に参加、作品発表の場を得ると、その2年後の1969年には芥川賞候補となった。この年で「犀」は終刊となるが、後藤は「文學界」で作品を掲載されるようになっていた。さらに翌1968年、36歳で平凡出版を退社すると、もはや編集者のライフワークではない職業小説家として、文芸各誌に作品を発表するようになる。ちなみに、のちの盟友・古井由吉はこの年、初めての小説を同人誌「白描」発表し、9月には、やはり31歳にして妻と幼い長女をつれ世田谷区〈馬事公苑のすぐ目と鼻の先の、四角四面の建物の一隅に栖を構えて〉*2いる。

* * *

 後藤明生にとって初の書き下ろし長編『挟み撃ち』は、1973年の夏、松原団地の仕事部屋でなく、毎夏を過ごすようになっていた信濃追分の山荘にこもり、書かれた。

草加宿はずれの田圃のど真中に、まるで蜃気楼のように出現したマンモス団地に住みはじめてやがて十年だった。いま十歳になる長男が生まれて暫くしてから、たまたま抽せんに当たったのである。一言でいえば、わたしは漂着した。*3

 ゴーゴリの『外套』の主人公アカーキーをもじって自分を〈赤木〉と記す主人公は、この朝めずらしく早起きをした。20年前に九州筑前から上京するときに着てきた外套、〈あの外套はいったいどこに消え失せたのだろう? いったい、いつわたしの目の前から姿を消したのだろうか?〉—朝方とつぜんの疑問にとり憑かれ目が覚めたのだ。上京する自分のため、母がどこからか手に入れてきた、なぜか真新しい旧日本陸軍兵卒用外套だった。その消息を求めるため、いきなり1日の〈巡礼〉の旅が敢行される。小説的にとりまとめてしまえば、結局これが〝自分の来歴を遡る旅〟になっていくのだが、それらしい小説的な動機づけや意味づけを、赤木は小説はじめのほうで早々と否定している。

 しかし幸か不幸か、わたしは目下『外套』を翻訳中の露文和訳者ではない。また、確かに四十歳の男であり、団地の片隅にも住んではいるが、毎朝通勤電車で通うサラリーマンでもなかった。したがって、もっともらしい、辻褄の合った小説の主人公には、どちらかといえば不向きな人間かも知れない。*3

 いや、どうやら否定しておきたいらしい。
 彼は20年後の今でも、すでに世間で珍しくなった外套を愛用しているが、失われた当の外套自体には、生活必需品であるという以上の愛着はないはずだった。その外套は何度も質草にされ、消えていたことすら忘れていたくらいなのだ。そんなものを探す旅に、動機も意味も不要であろう。自分はいつも、ただとつぜんのできごとに、それなりに対応してきただけだ。期せずして小人国に漂着したガリバー同様、草加の団地に漂着した自分であってみれば、過去から現在への流れにも、着物・持ち物にも、手前味噌な意味や動機づけなどあるわけがないではないか—そのようにして抑制を働かせる理由は、私的物語への欲望に抗するため、と言うより、むしろ溢れんばかりの他者の声が挿入され収拾がつかなくなることへのおそれだ。思いつきの外套探しでなく、自身の過去へ遡ること自体が目的となってしまったら、逆に無数の他者の声によって、すぐにも紙面の文字群は物語の混沌と化してしまう。つまりこういう。

● 京浜東北線・蕨(S27・3〜28・5)—●赤羽線・板橋(S28・6〜約一ヵ月。滝野川郵便局裏。二階)—●西武新宿線・鷺の宮(S28・7〜約一ヵ月。麦畑の中を歩く)—●中央線・四谷(S28・8〜約三ヵ月。四谷税務署近く)—●山手線・高田馬場(S28・11〜約一年。早稲田松竹裏と諏訪神社近くの魚屋の隣の一軒家の二カ所)—●中央線・荻窪(S29・10又は11から約半年。荻窪一丁目バス停先左折・二階二畳半?)—〈中略〉●中央線・東中野(S36・10〜S37・12)—●東武線(地下鉄日比谷線)・現在の団地(S37・12〜)—?
やれやれ! まったくとんだ矢立のはじめである。いったい何ヵ所あるのだろう? わたしは①から番号をふってみた。いま住んでいる団地が⑮である。これが、蕨宿から草加宿へたどりつくまでの十年間にわたしが辿った迂回路だった。九州筑前の田舎町から出てきたわたしが、さまよい歩いた迷路だった。遍路歴程だった。生きてきた時間と空間だった。カタツムリのように動いた軌跡だった。
 ボールペンで書き込まれた小型メモ帖の一ページからは、無数の人間の顔がのぞいている。駅名と駅名の間には、それら男や女たちの顔が、あたかも枕木のようにぎっしりと挟まっている。しかしわたしは、彼らの顔にここでは目を向けたくない。いまはその迷路の暗闇から、わたしの方を見ている彼ら男や女たちの口を封じておかなければならぬ。また、彼らに語りかけようとするわたし自身の口も、封じて置かなければならない。もし万が一、わたしが彼らのうち誰か一人に向って口を開いたら最後、駅名と駅名の間にあたかも枕木のようにぎっしりと挟まってひしめき合っている彼らは、一斉に立ちあがってわたしの記憶の中で氾濫し、たちまちにしてわたしの計画をめちゃめちゃにしてしまうだろうからだ。*3

 あくまで目的は外套探し。
 赤木は外套の消息を探るため、まずはスタート地点の蕨町(現蕨市)を訪ねることにする。大学受験に失敗してから、しばらく下宿した家である。ところがこれが面倒な行程だ。東武伊勢崎線松原団地駅から国電(当時)京浜東北線蕨駅は、同じ埼玉県南部にあり、直線距離なら10キロ程度しか離れていない。しかし鉄道経路を用いるとなると、ひとまず東京へ出なければならない。まず東武伊勢崎線乗り入れの地下鉄日比谷線で上野駅まで出る。そこで国電京浜東北線に乗り換え、埼玉に逆戻りするのだ。*4そのような足労をはらっての、この日の赤木の〈巡礼〉行程は次の通り。

 草加・ひさびさに朝の食卓に着き子どもたちを見送ってから午前九時に団地出発—上野駅・電車乗り換え—蕨の駅前商店街通り・20年前に夜道で見かけた「ブリュネット」を思い出す—下宿先石田家・おばさんとの再会によって同郷の旧友久家の存在を思い出す。—中村質店・おばさんが午後4時に帰宅することを確認—上野・久家と面会するつもりだったが昼食時で外出中。通りがかった映画館の前で、かつて二等兵の衣装を着る映画宣伝アルバイトをしたことと北朝鮮・永興での終戦を思い出し、幻の兄に抗弁する。久家とはけっきょく電話で話すのみ—亀戸・3丁目にあったはずの元花街を訪ねながら、筑前の文学娼婦ヨウコさんと大佐の娘を思い出す。花街は消え去ったが、20年前と同じ場所にあった豆屋で煎ったそら豆1合を購入—蕨・外套を預けたことのある中村質屋のおばさんと再会。赤木のポケットからそら豆が転がり落ちたのを見て、おばさんはかつて〈八百円の外套〉から南京豆が転がり出たのをを思い出す—お茶の水・〈お金の橋駅〉ことお茶の水橋の上で友人山川と午後六時の待ち合わせ。20年前ここからバスに乗って入試に向かい、《早起きは三文の得》という英訳が書けず落第したことなどを思い出している。
 最後のお茶の水橋が小説の冒頭および締め括りの場所となっている。つまり小説の構成は、円環を成す1日の回想仕立てである。この1日のできごとは、お茶の水以外の場所については時系列通りに書かれているのだが、行く場所ごとに、20年前、さらに以前、永興での終戦や筑前での生活も思い出され、いま現在のできごとが、それら不連続のできごとと重なっては消える。
 じつは後藤明生は、時間・場所・物語の関係性について、梅崎春生『幻花』と武田泰淳『目まいのする散歩』を比較しながら次のように語っている。

 ですから、梅崎さんの場合はいろんな場所をたどって、ある地点に向かって行くんだけれども、その場所、つまり空間が全部時間化されている。反対に武田さんの場合は、ばらばらな時間がポツンポツンと出てくるんだけれども、それらはすべて散歩しいている公園の中で空間化されるという書き方をしている。それから物語性という点では、ストーリーを全く寸断してしまって、断片化してしまっている。過去も現在も断片化し、時間を空間化することによって、小説全体を繁茂の語りにしてしまっていると言えるんじゃないかと思います。*5

 まさに種明かしという感じだが、武田の方法を後藤自身で試みたのが『挟み撃ち』だったわけである。赤木のたどった1日の行程は、すべて思いつきで場所が選択され行きつ戻りつし、電車のつながりも悪く分断されている。思い出される過去のできごとも同様に、脈絡なく前後し同じことが何度か語られる。だがその場所で行う所作は、同じ場所で行われた過去の所作にそのままつながり、また現在にもどる。そうするうちに赤木も読者も、現在と過去の境目がわからなくなってくるのだ。
 過去と現在が、いわれもなくその場所に立っただけで混在してしまうのは、赤木にとって過去の自分と現在の自分に明確な差異を認められないからだ。赤木の過去からの流れには、永興—筑前—東京(とその近郊)をつないで持続し発展させてきた、物語と思われるものが見いだせない。つまり原因と指向性のある経験の蓄積、もしくは赤木自らが過去と現在の状況を意図的につなぎ合わせ解釈していること、そのような時系列的変遷がない。先に述べたように、各所の流れと事の原因を著そうとすれば、無数の他者の声が割り込んできて、物語はいずれにせよめちゃめちゃになるのだろう。彼に整然とした成長物語はないのである。

あのカーキ色の旧陸軍歩兵の外套を来て、九州筑前の田舎町から東京へで得てきて以来ずっと二十年の間、外套、外套、外套と考え続けてきた人間だった。たとえ真似であっても構わない。何としてでも、わたしの『外套』を書きたいものだと、考え続けてきた人間だった。つまりわたしは、わたしである。言葉本来の意味における、わたしである。*3

 赤木にとってできごとはいつも〈とつぜん〉であり、それは何者か、あるいは何者かわからないものによってもたらされる。さまざまなできごとにより、つい今しがたまでの何も知らない赤木と、現在ただ今〈とつぜん〉何かに見舞われた赤木は分断される。2人の赤木の間に、挟み将棋で挟まれた駒のごとく一瞬現れすぐ失われる赤木がいる。その残像のような赤木が、それぞれ不連続でありながら間断なく続くことによって、あたかも実体のように存在する…彼こそが〈外套、外套、外套と考え続けてきた〉〈言葉本来の意味における、わたし〉、饒舌に語り続ける赤木その人であると言えるのだろう。

* * *

 ところで、なぜ外套の行方は知れないままなのか。
 ゴーリキーの書き著した万年九等官アカーキー・アカーキエヴィチ・バシマチキンは、外套を新調するにあたり、夜のお茶をやめ蝋燭を灯さず、元来の質素さに輪をかけて為しうる限りの倹約をした。そして仕立屋ペトローヴィチとともに、表地の羅紗、裏地のキャラコ、襟につける貂に似た上等な猫の毛皮にいたるまで、自ら選びぬいた。しかし間もなくこの愛しい外套は追い剥ぎに奪われる。その際の恐怖と、助力を求めた〈有力者〉から逆に叱責された絶望と憤懣によって、アカーキーは精魂つき熱病を患って絶命するのである。彼はペテルブルグのカリンキン橋付近で幽霊となりはて、生前のおとなしさからは思いもよらぬ凶暴さで無差別に通行人から外套を剥ぎとった。たが一夜、夜会から愛人宅へ向かうあの〈有力者〉=勅任官を襲い、彼から外套を奪うと、ふっつり現れなくなる。
 アカーキーの幽霊もまた、自分の外套をとりもどしてはいない。にもかかわらず彼が現れなくなった理由をゴーリキーは〈おそらく勅任官の外套が彼の肩にぴったり合ったためであろう〉*6としている。そうだろうか。それでいいのか。あんなにも大切な外套、恋人のような、我が子のような外套である。いくら勅任官を恫喝して鬱憤が晴れ、奪った外套が(おそらくアカーキーのものより)上等でサイズが合ったとしても、あの大切な失われた外套を忘れられるわけがないではないか。
 俄に想像が逞しくはたらくが、アカーキーの外套を奪った髭を生やし大きな拳を見せる男たちと、物語最後でオブーホフ橋のほうへ向かって消えた亡霊(?)は同一で、アカーキーは彼らと取り引きしたのではないのか。自分の外套と、多くのより上等な外套を。勅任官の外套が肩にぴったり合ったのは、アカーキーでなく髭の亡霊(?)のほうだった、というオチではどうか。
 いずれにせよアカーキーは、〈とつぜん〉ペトローヴィチに押し切られ外套を新調するはめになり、〈とつぜん〉追い剥ぎに外套を奪われ、〈とつぜん〉勅任官によって絶望させられた。彼もまた赤木同様つねに何かによって分断され、その狭間で呆然とし、思うのは外套のことばかりである。そして物語の最後まで外套は彼のもとにもどらず行方すらわからないままだ。
 もうこうなると、赤木とアカーキーの失われた外套の行方がわからないのは、むしろそれが必然だと考えるべきなのだろう。〝いつかどこかに〟失われたのではない。彼ら自身がわけもわからぬまま、それまでの自分から分断されたとき、着ていたはずの外套も同じように分断されたのだ。手元になくても、いま現在どこかで誰かが着ていたり質屋の蔵に眠っていたりするような〝行方〟はないのだ。自分から完全に分断され、とりかえしのつかないものになった。分断の一瞬のうち彼らの眼に残るのは、ひるがえる外套の残像に違いなく、これに惑わされているが、いつの瞬間にか自分がもとの外套を纏っていないことに気づく。アカーキーには替えの外套がないため早い段階で気づいたが、赤木は別の外套を纏っていたためにその違いに気づかず、20年を過ごしてきたのに違いない。

この美しい衣裳をまとった三人の美女、あーら不思議、美女たちは一瞬にして裸体となる! そして更に、あーら不思議、美女たちは一瞬にして白骨となる!*3

連続写真の流れのうちでは、白骨であっても美女と思うのと同じで、白骨は白骨でしかないと認識するのはずっと後のことだ。外套も、それが完全に失われたと認識するのは、できごとに遅れるだろう。
 あるいはアカーキーの幽霊は、恨めしい勅任官を脅して外套を奪っても、自分の大切な外套の代わりにはけっしてならないということをついに得心し、もとの彼にもどって死に恭順したのかもしれない。だが赤木はまだ腑に落ちない。外套を諦めきれないというより、自分の身に起きてきたあらゆるできことを得心できずにいる—入学するはずだった憧れの幼年学校は〈ある日とつぜん、その校門はすうーっと、あたかも冗談か嘘ででもあったかのように、消えて亡くなってしまった〉。よく知っている歌『パイノパイ』が日本人を罵る朝鮮語の歌詞になり、生まれ故郷は二度と踏めない土地になった。釈然としない幼い悔しみが、まだくすぶっている。

いちいち大騒ぎをしてはいられません。何が起っても、おどろいてなどはいられません。実際、何がおこるかわからないのです。そしてすべてのことは、とつぜん起るわけです。
(中略)その「とつぜん」が、誰かにはきわめて当然の結果と考えられるだろう、ということです。*3

そう言い放ちながら、瞼の裏には外套の残像ばかりひるがえっている。いつも、ここではないどこかに失われたものたちは存在して、脚を延ばし手を伸ばせば、あるいはとりもどせるのではないか、そんな気がしてしまうのだ。

* * *

 燐光群創立25周年記念公演『ワールド・トレード・センター』(作・演出 坂手洋二)は、マンハッタンのミッドタウンにある日本人向け情報誌の編集部を舞台に、2001年9月11日「アメリカ同時多発テロ」の1日を過ごした人々を描いている。彼らはワールド・トレード・センターが崩壊するのを階段の窓から目撃し、さまざまな情報や噂が、テレビやインターネット、そこに出入りする人々(ほとんどが日本人)によってもたらされる。真っ先に取材に出た編集員の帰りを待ち続ける見習い編集員、その友人のオフブロードウェイ俳優たち、現場で撮った写真を売り込みにきて再度現場へ向かう写真家、自宅アパートから避難してきた初老の美術家、明朗にふるまいながら肝臓病と飲酒癖を隠す編集長、連絡のとれないアラブ系の恋人を捜す女子留学生—〈たった一日で、世界が変わるわけじゃない〉*7というコピーフレーズの通り、彼らはこの突然の暴力的なできごとに対し、彼らなりの姿勢で向き合うしかない。そして彼らの人生が、このできごとの暴力によって完全に破滅的な方向へねじ曲げられてしまったわけでもないし、逆によい方向へ転じるわけでもない。この演劇は日本人の、まさに窓から眺めた9・11である。それを演劇として表すことや、そうした立ち位置自体へのナイーヴな批判は、どこからかなされるのかもしれない。それと同じ理由で、坂手洋二作品としては、作品モチーフや人物たちに対する批評眼が、つきつめたものにはなりきれずにいるのかもしれない。
 ところで、一般にも劇中でも〈ワールド・トレード・センター〉と言えば、ニューヨーク市マンハッタン区ローワー・マンハッタン(マンハッタン南端)に位置するワールド・トレード・センター・コンプレックスのビル群のうち、二棟のそっくりな超高層(110階建て)ビルを指す場合が多い。設計者は日系アメリカ人建築家ミノル・ヤマサキ。彼の案がコンペで採用され、計画が公表されたのは1964年、松原団地完成と同じ年だった。マンハッタンの門柱のごとく屹立する南北双子塔(ツイン・タワー)の、良く言えばシンプルかつモダン、悪く言えば四角四面なスタイルは、建設当初ニューヨーカーの不評を買ったらしい。だが失われた今となっては、毅然としたその姿を惜しむ声も多い。
 1973年4月に落成したワールド・トレード・センターはしかし、2001年当時、建設から30年足らずですでに老朽化の悩みを抱えていたとされる。また、その崩壊によって最悪のかたちで実現してしまったのは、建材として用いられたアスベスト等の粉塵による健康被害である。「同時多発テロ」の際、救援に奔走した消防士・救急隊員・建設作業者らには、現在、呼吸器系疾患が多く発病しているという。このことは『ワールド・トレード・センター』劇中でも言及されていたが、アメリカ政府による彼らへの補償は未だなされていない。
 〈グラウンド・ゼロ〉をはじめとするワールド・トレード・センター跡地におけるビル再建計画は進んでおり、すでに2006年に新7WTCビル一棟が完成している。ツイン・タワーに代わるランド・マークとしては、ダニエル・リベスキンド設計の〈フリーダム・タワー〉がコンペに当選しているが、現在のオーナーは当初案を大幅に変更する意向であるらしく、リベスキンド作品とは言い難いビルが建設される可能性も高い。とはいえ、どのような形状であってもそこに建ってしまえば、実用物件として生まれながら、さまざまな象徴、暴力と悲惨の記憶、屹立しかつ崩壊するツイン・タワーの残像を宿さねばならないのだろう。

* * *

 じつは松原団地で、現在建て替えが進んでいる。第一期建て替え工事が着工されたのは2005年10月。2015年までに全棟完了という予定である。第一期建て替え区域は保護シートを外され、倍の高さある真新しい建築が松原団地駅の高架ホームからも臨めるようになった。その塗りたての外壁が、築40年を超す旧棟の老朽化をいやでも際だたせている。だがいまだ旧棟への入居募集はかけられており、3K〜1DK(家賃四万〜二万八千円程度)、2010年3月末日退去期限としての公示がある(2007年12月現在)。
 もちろん建て替えに際しては住民の協力が必要だ。基本的には家賃を引き上げて新棟へ移動してもらうということになるが、都市再生機構(UR)の計画と、住民側の事情・希望は当然のことながら齟齬をきたす部分もある。年金で暮らす高齢者住民の処遇、旧棟への設備充当の遅れ、40年かけて繁茂してきた植物が失われるなど〈ビルド・アンド・スクラップ〉方式に対する疑問はさまざまに提示されている。
 1960年代に花と咲いた団地群は、多様なニーズに応えるマンションや戸建住宅が供給される時代へ移行するにつれ、画一的で古く狭い、というイメージに陥らざるをえなくなっていった。イメージのみならず現実に建物の老朽化は進み、また巨大な集合住宅の宿命として、住民任意の改装や団地全体への設備刷新が難しいため、どうしても不備と不満が多くなる。かつての団地族は、大きくなってきた子どもの個室を設けるため新しい住居へと移ってゆき、そして新規入居者は減少する。集合住宅を探す人は、築年数と家賃を比較し、平均的な家賃でより新しく設備のよい物件を選ぶことが多いだろう。1980年代には、団地は〝古くて狭いが家賃は安い(+α=お金が貯まったらマイホーム購入)〟というような、いささか消極的な住宅選択肢となっていた。
 1970年代半ばからの松原団地にはまた、別の問題も起きていた。松原団地付近では、本来は稲作用水である綾瀬川とその支流の伝右川が近接している。もとは田圃が多く、道路にも土面が残っていたこの地域に、松原団地建設以降、多くの住居が建ちアスファルトが敷かれた。このため台風が見舞うたび川は氾濫、団地全域が冠水するようになったのである。当時の松原団地は「水の都」などと呼ばれもした。水害が改善されたのは1996年、東京外環自動車道の工事に併せ、綾瀬川放水路が整備されてからのことである。

* * *

 後藤明生が、二人に増えた子どもと妻とともに千葉県の谷津遊園ハイツに転居したのは、『挟み打ち』刊行の翌年1974年11月であった。まさに鳥の渡るがごとく。後藤の転居はその後も何度か繰り返される。普段の住居は賃貸の団地、夏には信濃追分にある自分の山荘、というのはロシア風住居観の影響だったかもしれない。1989年に近畿大学教授就任、1991年には新幹線の遠距離通勤をやめて東京近郊から大阪へ移り住んだ。それからも書き、講演し、役職の務めに奔走し、学生と飲み、阪神大震災の際は執筆中の原稿を抱えて避難し、肺癌の手術を受け、1999年8月、近畿大学附属病院にて逝去。享年67歳だった。
 作品『嘘のような日常』には、朝鮮からの引き上げ途中に死去した父と祖母を、朝鮮の花山里で埋葬し、三十三回忌を迎えてなお父の墓所を定められない主人公がいた。後藤自身もまた定まった家の墓所でなく、特にゆかりのなさそうな静岡県の、富士霊園に納骨されている。富士霊園は一九六五年開園、「日本一広い」と謳われており、桜の名所として誉れ高い。面積約70万坪、約7万区画を擁し、さらに新区画を分譲している無宗派の広大な霊園である。そこに日本文藝家協会管理の〈文学者之墓〉があり、後藤明生が最期に落ち着く先となった。赤木の言葉を借りてみるならば、またしても〈漂着した〉格好なのかもしれないが、文学、文学、文学と考え続けた生涯に、似つかわしい場であるのかもしれない。
 春には桜も美しいだろう。

* * *

 写真家 深瀬昌久が松原団地に入居したのは、後藤明生に少し遅れた1964年のことだ。自身の重要な被写体でもある妻洋子と、そこで新婚生活を開始したが、2人の関係は相剋のくりかえしで、幸福は長く続かなかったようだ。松原団地での生活も4年足らずだった。しかし建設当初の松原団地の風景を深瀬は撮影している。*8まだ芝生の緑もなく苗木は箒のようで、野良犬が尻を嗅ぎ合い、剥き出しの埋立土砂が荒涼と広がっている。そこは田園地帯の楼閣でなく、人の住む限界域、世界の果てのように見える。それが深瀬の松原団地、そのとき深瀬の住んでいた世界だったのだろう。だが深瀬がいたころも去ったのちも、松原団地には別様のさまざまな生活で満ちていたはずだ。たとえばちょっと変わった小説家一家の、若い共働き夫婦の、年金でひとり暮らす老人の。
 同じ大きさ矩形の住居群は、あらゆる世帯の抽象化された様態だ。どんな住居も最後には四角で描き表される。新しく建て替えられる松原団地もそうであろう。それらは何度も打ち崩され、何度も建て替えられるうちに、どれも同じ連続した存在であるような錯覚を覚える。しかしそれは残像だ。打ち崩された建築は、もうどこにもなくなる。




* * *

* 1 http://www.city.soka.saitama.jp/hp/page000008600/hpg000008507.htm
* 2 古井由吉『折々の馬たち』角川春樹事務所(一九九五)
* 3 参考文献1
* 4 現在は、下り方面の新越谷駅で下車、隣接するJR武蔵野線南越谷駅に乗り換えて南浦和駅まで行き、同駅で京浜東北線に乗り換えて蕨駅に行くのが最も早い電車のルートだろう。
* 5 参考文献2
* 6 参考文献8
* 7 参考文献9
* 8 参考文献10

【参考文献】
1 後藤明生『挟み撃ち』講談社文藝文庫(1998)
2 後藤明生『日本近代文学との戦い—後藤明生遺稿集』柳原出版(2004)
3 後藤明生『嘘のような日常』平凡社(1979)
4 後藤明生『笑い地獄』集英社文庫(1978)
5 『草加松原団地40年の歩み《写真集》』草加松原団地自治会(2004)
6 『松原団地 快適さんぽみち』草加松原団地自治会(2005)
7 洋泉社MOOK シリーズStartLine13『僕たちの大好きな団地』洋泉社(2007)
8 ゴーゴリ作 平井肇訳『外套・鼻』岩波文庫(2006)
9 劇団燐光群創立25周年記念公演『ワールド・トレード・センター』(作・演出 坂手洋二)パンフレット(2007年10月)
10 『日本の写真家34 深瀬昌久』岩波書店(1998)
【参考ウェブサイト】
1 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/
2 独立行政法人都市再生機構 http://www.ur-net.go.jp/
3 さばとら'sブログ 松原団地と『団地再生』 http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/mikesimatenn/
4 草加市 http://www.city.soka.saitama.jp/index.html
5 富士霊園 http://www.fujireien.or.jp/

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