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「なぜ楽しめないか」の記憶

気づきのシェアとして。
写真は「ママ見て、花火!」と言う次女三歳。

「何でそんなに楽しまれへんの?」が刺さった日

「何でそんなに楽しまれへんの?」
昨日、親しい人からの言葉がグサッと刺さった。その言葉に対して自分の正当性をあれこれと並べながらも、冷静に見ている自分がいた。怒りや悔しさ、惨めさの向こうに悲しみや寂しさがあって、その既視感に気づいた瞬間、子ども時代の記憶が蘇った。

「楽しむ」という決意

私は占いをあまり信じていないが、瞬間瞬間に出会う言葉に対する共時性は大切にしている。身の回りにやたらと星読みをする人が増えていることもそのひとつだ。

そんななかで、女子から圧倒的支持を得ている「しいたけ占い」の来年上半期について書かれた文章と出会い、それがとても響いたのだ。

https://voguegirl.jp/horoscope/shiitake2021-h1/contents/05leo/

要は、「遊ぼう」という事が書かれていた。

この言葉はひとつの啓示のように私の心に響いて、「よし、私もう楽しいことしかしない!」と心に誓った。その数日後の昨日だった。

蘇る記憶①「楽しくなくてもやらなければならない」

ひとつめに浮かび上がった記憶。それは「楽しくなくてもやらなければならない」ことばかりやっていた記憶だった。色んな背景があり、楽しいこと、やりたいことよりも、やらないといけないことをこなす癖がいつの間にかついていた。その背後に諦めや怒りの気持ちが常にあった。

蘇る記憶②「楽しいという気持ちがわからない」

そんな毎日を過ごすうちにか、気がついたら私は楽しいという気持ちがわからなくなっていた。幼稚園の頃にはもう、友達に対してどうふるまったら良いのかわからない状態で、いつも孤独を抱えていたことを覚えている。

蘇る記憶③「私がいると皆が楽しくなくなる」

小学校に上がった私は典型的な優等生だったが、対人関係へのぎこちなさは変わらなかった。そして、ぎこちない私がいることで皆が楽しくなくなることがとても怖かった。

初めて心から笑った日

そんな私が、初めて心から笑った日の記憶も蘇った。小学校3年生の時に仲良くなったKちゃんとの話。Kちゃんは女子達の、仲良くなったり喧嘩したりの繰返しに疲れて、女子とつるまない私に声をかけてくれたのだ。Kちゃんはおっとりしながらも自由で、ユーモアに溢れていた。

私が心から笑った日…本当にすっごくくだらないのだけど、近所の本屋ですごく面白い本を立ち読みしていて、笑ったその時に勢いあまってオナラをしてしまったのだ。Kちゃんと私は火がついたように笑った。私は自分がそんな笑い方が出来ることを初めて知った。驚き過ぎて、家に帰って母に報告したくらいだ。

他の女子達が派閥抗争をしている間、私とKちゃんは木登りに行ったり、裏庭にしじみ蝶を捕まえに行ったりして、平和な時間を過ごした。

なぜこんなに楽しめないか

そうやって私は、友達との付き合い方を少しずつ覚えていき、結婚し、出産して今に至る。でも楽しくないことを我慢してやったり、対人関係におけるぎこちなさは今も持ち続け、時折浮かび上がって来ていた。小さい時の記憶なんて忘れていた。

「なぜこんなに楽しめないか」

それは私の幼少期からの思考の癖だった。その記憶が蘇ったとき、涙がこぼれた。私の涙であり、私の中の小さき私の涙だ。

「ママ笑って」

私に元気がないとき、次女3歳はこう言う。これこそ無償の愛だ。ママ気づいたよ。これであなたたちにもっと優しくしてあげられるようになるだろうか。あなたたちの楽しい気持ちを守ることができるだろうか。

「楽しみ」との向き合い方

楽しいことだけしたら良いのか、一見楽しくないことも楽しめるように気持ちを整えたら良いのか、楽しくないことは楽しくないなりにやれば良いのか…このあたりのことが、私にはまだよくわからない。

これもまた、プロセスにあるということで、ハートに聞きながら向き合って行こうと思う。

まずは小さき私にコンパッションを。

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