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20年目の〝夏の終わり〟~秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』をめぐって(4)~

【ご注意】本稿には秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』、『猫の地球儀』のネタバレがあります。

(4)夢見るリアリスト・秋山瑞人

(承前)話を戻す。システムがどれだけ冷酷なものであろうと、結果をめざす過程がどれだけおぞましいものであろうと、個人と全体の破滅とを天秤にかけたとき、榎本たちにとってどちらをとるかは選択肢にすらなっていなかった。

私はここに、冷酷なシステムさえも必要悪として捉える秋山の冷徹な視線を感じる。この視線は前作『猫の地球儀』から続いているものだ。

『猫の地球儀』では、宇宙飛行を禁じる抑圧的な社会システムに対し、それでも宇宙へ行くことを目指す猫が主人公だ。しかし主人公はシステムから逸脱することの意味を考えずに行動したため、かけがえのない友人を最も惨いかたちで失うことになる(雑な要約で恐縮だが、本稿は『猫の地球儀』の紹介ではないのでご勘弁いただきたい)。

このときはじめて抑圧的なシステムが、ただ生存することさえ困難な世界に対して、社会全体を生き残らせるための必要悪であることが明らかになる。読者はもちろん主人公に感情移入しシステムを敵視して読んでいるから、この構図の逆転はよけいにショッキングだ。

この秋山の視線は、コードウェイナー・スミスの『人類補完機構』シリーズに通ずるものがある。

かつてSFマガジン初代編集長として日本にSFを根付かせた福島正実は、「醒めたロマンチスト」と呼ばれた。私はいちSF読者としてこの例に倣い、秋山を「夢見るリアリスト」と呼んでみたい。本書に流れる儚さは、世界が荒涼とした場所であると認識しつつ、それでもなお夢を見てしまう衝動によって齎されるのだ。

『イリヤの空、UFOの夏』が、少年少女を襲った悲劇であり、いわゆる「泣ける話」であることが、多くの読者を魅了してきたことは間違いないし、私もまたそうである。しかし本書には、「泣ける話」を相対化する視線も複数込められていることを見逃してはならないだろう。

ひとつは、これまでに述べてきたような、小説の内部における登場人物の配置のありかたについて。そしてもうひとつは、本書自体と読者との関係についてである。

文化祭の場面で、浅羽に片思いしている須藤晶穂は新聞部の取材にかこつけて、来校した浅羽の両親の顔を見てみようと思い立つ。ところがいざ遠目にその顔を認めたとき、唐突に思い出された記憶はペットを失って泣き崩れた級友の姿だった。

 晶穂の身体が凍りついた。
 自分は一体、何をしようとしているのか。
 十兵衛の死に泣き崩れる清美。とってつけたような言い訳と、腹の底に巣食っていた醜悪な好奇心。
 (略)
 信じ難いほどの悪趣味。
 最低最悪のノゾキ魔。

この件は、比較的明るい文化祭の場面でいかにも唐突である。恋する中学生なら、片思い相手の親の顔を一目見ようと考えてもおかしくはない。悪く言ってせいぜい罪のない野次馬根性である。なのに晶穂はなぜこのことと級友のペットロスという悲劇を結びつけ、ここまで罪悪感を抱かなければならないのか。(続く)


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