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"どこで働くか"より"誰と働くか"

大学6年生の頃、ひと足先に研修医になった先輩に言われた言葉が心に残っている。

「就職で大事なのは、結局”人”だよ。”どこで働くか”より”だれと働くか”で決めるのが良いよ。」


当時の僕は単純に「良い言葉だな。」と漠然と感じたことを今でも覚えている。

そしてその言葉に、今だからこそ、思うことがある。

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僕は、研修医〜若手の時代を、比較的有名な総合病院で過ごした。

それなりにネームバリューがあるため、応募者は多く、面接や試験でのselectionもあった。

  • 忙しいが、幅広い症例を経験できる

  • プレッシャーはあるが、若手にもチャンスが回ってきて、早く一人前になれる

  • 優秀な同期や先輩がいる


この辺りが僕の志望理由であった。



今では、そんな職場で働いてみて、とても良かったと思っている。

症例の豊富さや技術の研鑽ができたことももちろんだが、一番の魅力は

”人”

であった。

優秀な同期や同僚がいることは何にも変え難い。

若手のうちは、社会への経験が浅いことから、自己評価と他人からの評価が乖離してしまう。

そしてそれは大抵の場合過剰に自分を高く評価している。

医者はその最たるもので、偏差値を鼻にかけて社会に出て、突然「先生」と呼ばれ始めると、ついうっかり天狗になってしまうものだ、

これは非常に予後不良であり、新人という成長のボーナスステージでのチャンスをふいにしてしまう。


ところが、それなりの有名病院になってくると、selectionが働くため、自分と同等かそれ以上にデキる同期や同僚がたくさんいる

新しく入ったその小さな社会で、変に慢心することなく自己研鑽できるというわけだ。


またそういう病院は序列もはっきりしている。

有名病院では、自分がその完成されたピラミッドの中で、「新たな最下層として入ってきた」ということを否が応でも直視させられる。

そんな職場で上を見上げ、もがきながら学んでいく。

これが職場成長で効率の良い方法の1つである。

やはり、


どこで働くか、より、誰と働くかが大切。


これは真実だ。

ただ、それだけではこの言葉の一面しか捉えられていない。

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僕の勤めていた病院で異変が起こっている。

一言で言えば、崩壊しているのだ。

その病院は、一昔前まで心臓界隈ではそこそこ有名で、スタッフも多く在籍していた。

若手医師の数も多く、例年、多数の新入職者がいて、屋根瓦式の教育がしっかりとなされていた。

新人たちもselectionを勝ち抜いて入職しているため、基本的なスペックは皆高かった。

教育システムも確立されており、段階的にトレーニングされるため、学年が1つ違えば、誰から見てもわかるような明確なレベルの差ができる仕組みになっていた。

ところが、その中に1人、ポンコツドクターがいた。

A先輩としよう。


そのA先輩は雰囲気や人当たりは最高に良いのだが、学年に比して医師としての臨床能力に疑問がある先輩だった。

僕らが入職した時には、上司から、

「Aは面白くて良いやつなんけど、仕事は結構やばいからな〜。君らはあんな感じにはならないように(笑)」


と言われるような存在だった。

当時の僕は、

「A先輩は親しみやすいキャラだから、ネタとして言われているのかな?」

くらいに話半分で聞いていた。


ところが、1、2年が一緒に働いているとその「ヤバさ」に気がついてくる。

「こんな対応普通はしないだろう…」とか、「この学年でこれができないのはちょっとやばい…」

そんなふうに感じることが増えてくるのだ。

一緒のチームになると、その下につく者がどれだけ優秀か、が肝になってくる。

下の者がそのミスを早期にカバーし、裏で手を回してあげなければならないのだ。

ポンコツとは言え先輩なわけで、露骨にその方針に逆らうのは愚策である。

揉めて方針が拗れてしまったことで、最終的に不利益を被るのは患者さんだからだ。

バレないよう、時にはA先輩を立てながら、正しい方向に導いていく必要があった。

ここまでなら、正直言ってどの病院でもよくあることだ。


なんなら、医療系問わずどの職種でも、手のかかるポンコツ先輩の一人や二人はいるだろう。

僕がその病院に在籍している頃くらいまでは、代わる代わる下につく者が頑張ることで、組織やチームとしては一定レベルのクオリティの仕事ができていた。


ところが、僕らの数個下の代から、その構図が成り立たなくなってきた。


下に入ってくるものが、そのA先輩をカバーできなくなってしまったのだ。

そこには実力や性格の問題など部下側の要因もある。

ただ、最も厄介な要因は、「A先輩が、時の流れとともに、組織の中での学年や立場が上がってしまったこと」であった。


いくらポンコツでも同じ病院で10年近く働いていれば、自然とチームの上に立ってしまう。

そして、さらにまずいことにA先輩自身が無駄に自信をつけてしまい、さらにそのポンコツぶりに磨きがかかってしまったのだ。

後輩への物言いも、厳しくなった。

昔は上からポンコツ扱いされていたため、どこか周りの目を気にした喋り方であった。

それが、現在では上の目気にせず、間違ったことを強い言葉で断定的に言うようになった。 


以前はそれを嗜めていた上司たちも、あまりに改善が見られないA先輩に嫌気が刺して、ほぼ野放し状態になっていた。


肝心のトップもあまりに不出来なA先輩を更生させることを諦めてしまった。

僕は、その職場の崩壊初期に離脱したわけだが、その後もさらにスタッフの離職が相次いでいるようだ。

組織としてのプレゼンスも間違いなく低下しており、症例数や学会での発表数も目に見えて減っている。

栄えていた組織の一つが廃れていく様を間近で見た貴重な経験であった。

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「どこで働くか、より、誰と働くか」

これは一見すると、


恵まれた仲間と働くことで自分自身を引き上げてもらえる

というポジティブな意味合いで捉えることが多い。

ただ、そのもう一つの側面として

「やばいひとがいると、自分への不利益どころか組織がそのもの崩壊する」

ということも知っておかねばならない。

組織はその内部にいる要注意人物一人のせいで、ジワジワと目には見えにくい形で変わっていってしまう。

もちろん全てがそのA先輩一人のせいではない。

それはきっかけに過ぎないからだ。

もう十分安心できるポストを手に入れた部長仕事は程々でいい若手自分に直接関係がなければ他のことはどうでもいい中堅など様々な人の思惑が重なった結果である。

一方で、長らくその病院を支えてきた真に気概や実力のある人たちは、ひとりまたひとりと、辞めてしまったり、よその病院に引き抜かれていった。

外野から見れば、

「なんかあの病院、昔の勢いがなくなったよね?」


という程度の問題であるが、内部を見ている如何にして組織が崩壊していくかがよくわかる。

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「誰と働くか」


これはとても大切なことだ。

一方で、 

「誰と働かないか」



これもしっかりと心に留めておく必要がある。

若手のうちは、就職先を探す上で、”ひと”のもたらす光と闇を十二分に考慮する必要がある。

そして、極論を言ってしまえば、労働者として求職をしている時点で、「誰と働くか」を100%重視できていないということにもなる。

求職しているということは、選ばれる立場にいるということだ。

どんなに自分にとって良い環境であっても選ばれなければ意味がない。

自分が組織に入った後で、そのチームのポリシーや目的が大きく変わってしまうこともあり得る。

なんならやばい人が一人いるだけでも組織の様子は様変わりしてしまう。

結局は誰と働くかをもっとも重視した生き方をするのであれば、自分でパートナーを探せるような存在になる必要がある。

それは、必ずしも大企業の経営者になり、選りすぐりの部下を揃えてチームを作るという果てしないレベルの話ではない。

まずは一個人として、所属とは全く関係のない、金を稼ぐ方法を生み出す。

そこで小さいながらも「個人」としてビジネスを回すことができれば、必ずやいつか誰かしらの目に止まる。

そのビジネスを介して、人との新たな出会いやつながりが生まれ、それがいつしか自分にとって働きたい人と働く生活へとつながっていく。

それを体現している人がSNSにはたくさんいる。


「誰と働くかを決めれるようになる」



これは、限られた人にのみ大切な壮大な話のようで、誰しもが当事者たる極めて普遍的な問題でもある。 



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