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『できるのは生かすことだけ』

それは小学校生活最後の1年が始まろうとする春のことだった。

始業式の日、先に発表されたクラスは運良く仲の良い友達ばかりだった。あとは担任だけだね、などと教室で話し合っていると、突如教室に静寂が訪れた。大きな背、ラガーマンのような筋肉、怖い顔、いつ教室に入ってきたかも分からないその男は強すぎるオーラを放ちながら教卓の前に立っていた。

「先生の名前は吉田剛士です。他の学校からやってきました。ここは先生が赴任した3つめの学校です。先生の方がみんなよりこの学校について知らないことは多いですが、卒業までいい思い出を作りましょう。」

先生が話し終えてから数秒間は誰も言葉を発しなかった。例年、6年のクラスの担任はベテランで且つその学年を持ったことのある先生がなることが多かったので、こんなパターンは珍しかった。クラスのみんながどんな気持ちだったかは分からないが、少なくとも私は楽しみな気持ちよりも、その見た目も相まって不安な気持ちの方が大きかった。

クラスが始まってから数日はとくに何のトラブルもなかった。これまでは授業中にもはしゃいでいたようなやつが、今年は急に大人しくなったことには笑ってしまった。だが、午前授業の期間が終わり、初めての給食の日に、事件は起きてしまった。

初日の給食のは、サラダとカレーという至って普通のメニューだった。しかし、私にとっては大問題だった。なぜなら私はカレーの時に一緒に出てくるそのサラダがどうしても苦手だったからだ。野菜を食べれない訳ではないが、そのサラダのドレッシング特有の酸味がどうしても無理だった。

給食が始まると、僕はもちろんカレーから先に食べて、残るはその酸っぱいサラダだけになった。勇気を振り絞って一口だけ食べてみたが、やはり体が受け付けなかった。もう残すしかないか、、、と考えていた時、前に座っていた低学年の友達がその酸っぱいサラダを完食してるのが目に入った。それに驚いた僕はそいつに思わず聞いた。

「あれ、お前ってこのサラダ嫌いじゃなかったっけ。」
「うんそうだよ。だけどさ、もしここで全部残したらあいつ(先生)に何言われるかわかんねぇじゃん。俺はあいつに初めて怒られた生徒にはなりたくねぇから死ぬ気で食った。」

それを聞いた僕は深い絶望に陥った。なぜさっきまでの僕はこれまで通りサラダを残せると思っていたのだろう。僕だってあの先生に怒られるのだけは御免だ。でももうこれ以上このサラダを食べることもできない。吐き気さえしてきた。片付けまでの10分間、ただ呆然を外の景色を眺めていた僕はあることを決心する。

ちょうどみんなが片付けをしている頃、人目を盗んで、手にはフォークとサラダの皿だけを持って教室を抜け出しトイレの個室に駆け込む。僕だってこれがいいことだとは思わない。家でのご飯だって残すことなんて滅多にない。だが、残念ながらその時の僕には目先の利益より人間としての正義感を優先するほどの精神力は持ち合わせていなかった。トイレのレバーを捻る時、僕は人間としての尊厳を失ってしまったような気がした。

恐る恐る個室から出ると、トイレの前には吉田先生がこっちを向いて立っていた。後から聞いた話だと教室を抜け出す僕を見て、先生はなにやら怪しく思ったらしい。そして、トイレの流れる音と空のサラダの皿を見て確信したらしい。僕はこれまでの短い人生において未だ数回しか感じたのことのない絶望と、ホラー映画を見ている時の緊張を感じた。少しずつ近づいてきた先生は僕にこう言った。

「とりあえず、屋上に行こっか。」

そこから屋上へ行くまでの記憶はあまりない。が、これから起こることの様々なシミュレーションをして、そのどれも最悪な結末になることに対して絶望したことだけは覚えている。

屋上は春かぜが吹いていて、空は僕の気持ちとは対照的に雲ひとつない晴天だった。僕と先生は体育座りをして隣に座り、しばらく空を眺めていた。そして先生が口を開く。

「もしかして少食な子なのかな?」
「いや、違うんです。カレーの時に出てくるサラダだけがどうしても受け付けないんです。他は全部食べれるんです。あんなことしてごめんなさい。僕も悪いことと.....」
僕の話を遮って先生が話す。
「先生も実はあのサラダちょっと苦手なんだよね。なんか独特な酸味があるよね笑。先生はどうしても苦手な子に無理に食べさせようとは思わないから、これからはどうしても嫌なメニューな時は食べる前に先生に言ってね。量を減らしたりとかはしてあげれるからさ。」
「はい、分かりました。」
「もうちょっと空見ていたかったらしばらくいていいからね。」
そう言うと、先生は屋上をあとにした。

先生のいなくなった屋上で、僕は突然なみだが溢れてきた。なんのなみだかははっきりとは分からないけど、叱られた時のなみだとは、はっきりと違かった。また、あまりにも予想外の展開だったことに対する混乱のような気持ちを強く感じていた。また、ここまで優しくされるとかえって僕のしたことの罪の深さが感じられて苦しかった。先生の優しさが、自然なものか、それとも意図的なものなのかはこれまで一週間しか過ごしていない僕にはわかりっこなかった。しばらくしゃくりあげるように泣いた後、僕は教室に戻った。

その日の午後の授業は何も頭に入ってこなかった。屋上での会話をずっと反芻し続け、その度に泣きそうになった。こんなこと自分でもしたくないのに、フラッシュバックしてしまうのだからどうしようもない。はっきりと掴みきれないまま午後の授業が終わった。

先生はいつもは帰りの会を全て生徒に任せていたが、なぜかこの日は先生が前に立っていた。僕はもしかしたらみんなの前で説教されるかもしれないという不安を感じて、屋上に行くまでの気持ちが蘇ってきた。もしほんとに説教されるのだとしたら、屋上での会話は茶番に過ぎなかったことになって、勝手に悲しくなった。しかし、先生は思いもよらぬことを話し始めた。

「みんなはアポロ1号って知ってるかな。アポロ11号は知ってる人も多いと思う。アポロ11号は人類で初めての月面着陸を達成した宇宙船だからね。じゃあアポロ1号は何か予想つくかな?

アポロ1号は残念ながら爆発事故によって失敗に終わってしまったんだ。そして、乗っていたパイロットの3人は死んでしまったんだ。

その事故は人災だという意見が多くある。明らかに防げた事故であると。だけど先生が君たちに言いたいのはそこではないんだ。

アポロ1号の事故があったからこそ、アポロ11号は成功したんだ。その痛ましい事故がもう起きないように改善に改善を重ねることで、人類は月に降り立つことができた。

つまり、先生が言いたいことは何事も先人たちの犠牲の上で成り立ってるってことなんだ。そして残された私たちにできることは先人たちの犠牲の声を聴き、それを生かすことだけなんだ。ただ受け継いでいくことしか私たちには出来ないんだ。

私たちが現在当たり前のように享受しているスマホやパソコンとかのテクノロジーはもちろん、教科書に書いてある知識だって、そしてなにより人間らしい生活ができるための平和は、全て先人たちの犠牲があってこそのことなんだ。君たちにはそのことをたまにでいいから思い出して欲しいんだ。

中には、事故を美化すべきでないと言う人もいると思う。事故の原因を作った人をしっかりと処罰するべきという主張は間違いじゃない。でもやっぱりどうしても犠牲は必ず生まれてしまうと思う。だから、先生はどうすれば犠牲を無くせるかよりはどうその犠牲を未来に繋げるかの方に力を注いでほしい。そうすることで未来はより良くなっていくから。

これは君たちも同じことで、これからの長い人生、たくさんの失敗だったり人間関係のトラブルが起きると思う。そんな時は誰が悪いかじゃなくて、どうしたらよくなるかを考えて実行してほしい。私たちができることは、犠牲の声を聴いて生かすことだけなのだから、、、。

まあ、これは全て先生の個人的な意見だから全然聞かなくていいです。それよりも、先生はこの1年間みんなと楽しい思い出をたくさん作ることが1番大事なことだと思います。でも、たまにでいいか今日行ったこと思い出してほしいです。」

その話を聞いて、あの屋上での会話は何の茶番でもなくて、先生の本心そのものであることがわかった。そして、いつの間にか自分の犯したことの罪悪感は薄れていき、ただ夢の中のような感覚で先生の話に思いを馳せていた。なにより、これまでの人生でここまで人間の「考え」みたいなものを聞いたことがなかったので、新鮮な気持ちだった。

その後、先生は何も言わず帰りの挨拶だけを行なって教室を出て行った。残された僕たちはみな呆然としていた。それぞれがそれぞれに思うことがあるのだろう。しかし、ただ一つだけ確かにみなが思っていたことがある。

「これからの1年間、なんだか面白くなりそうだ。」

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