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ボカコレはなぜ燃えたのか――"Adoコレ"とボカロの祭典に対する私見


はじめに ~3/9―—"Adoコレ"爆誕~

……まぁ荒れている。

 3/9はボカロファンの間では一般に「ミクの日」として知られており、この日も多くのクリエイターがミクの日を祝う作品を投稿し、界隈は盛り上がっていた。そんな中、ボカロの祭典としてボカロファンなら誰しも一度はその名を聞いた事のある一大イベント、The VOCALOID Collection(通称ボカコレ)もプレゼントだと言わんばかりに近々開催されるボカコレ2023春の新情報を公開。だがそれがプレゼントどころかとんでもない爆弾だったことが発覚した結果、当該Tweetはたちまち荒れに荒れる事となった。
その爆弾こそ、冒頭に示したスペシャル企画……Ado×ボカコレである。


「はいはい。いつものボカロ厨の歌い手アレルギーね」

 そう思ったあなた、ちょっとストップ。今回の件はそんなに単純な話ではない。たしかに原曲厨、ボカロ厨と揶揄されるような人種は一定数おり、彼らがこの騒ぎに加わっているのもそうなのだが、今回に関しては比較的歌い手やプロセカといったボカロの周辺文化に寛容な"穏健派"とでも言うべき人たちの否定意見も目立つ。

 つまりこの件は"一部の過激派が過剰に反応している"だけで片づけられるものではない。しかしAdo歌唱を肯定する人たちの多くはそのような認識でAdo×ボカコレを批判する人を批判してるような節がある。
 ただ非難されるだけならまだしも、お前らのような人間がボカロ文化の発展を邪魔するんだ!とまで言われるのは、1ボカロファンとして業腹である。
 このnoteではなぜ過激派だけでなく穏健派までもが拒否反応を示すのかについて私見を交えつつ考えていきたい。もちろんtwitterなどで他の人の意見は見ているが基本は私の主観であり、否定する人は皆こう考えている!と主張しているわけではないことはご承知いただきたい。またAdo×ボカコレスペシャル企画肯定派およびAdoをこきおろす内容でもないので、そのようなものを期待して読む方には意に沿わないものになっている事もあらかじめ言っておく。なお文中で使用する"ボカロ"は「合成音声ソフト全般及びそのキャラクターと、それを使った曲」程度の意味合いなので悪しからず。




"Ado賞"なんてものは存在しない

ここでは便宜上前述のAdo×ボカコレスペシャル企画の事を"Ado賞"と呼ばせてもらうが、どうもボカコレ側はAdo賞の事を褒賞だとは思っていないらしい。

こちらを見てもらえれば分かる通り、褒賞として記されているのは最大30名への奨励金。そして副賞として設定されているのはプロセカに楽曲が実装されるボカセカ賞と、超会議2023のテーマとなる超会議テーマソング賞のみである(ちなみにこの2つとAdo賞はいずれもスペシャル企画として展開されている)。つまりボカコレ側としては、Ado歌唱はあくまでただのコラボ企画でありボカコレ側が与える褒賞ではないという認識らしいが、いくらなんでもそれは通らないだろう。Adoが勝手に「ランキング1位の曲を歌います!」と宣言したならともかく、わざわざ公式の方から紹介した上で褒賞ではありませんは無理がある。実際twitterで検索してみると肯定派も否定派も当然のようにAdo賞という言葉を使用しており、ランキング1位の報酬の一つにAdo賞があるという認識は支配的となっている。
 また話は変わるが、ボカコレの賞にはほしのディスコ賞というものが存在する。これはほしのディスコ氏が選んだ楽曲を歌唱するというものだが、こちらはまったく荒れていない。仮に"歌ってみた"が賞となるのが問題なら、知名度の差はあるとはいえこちらが荒れてもおかしくないはずである。
 これと前述のAdo賞をあわせて考えてみると、今回の炎上の理由としては"Adoの歌唱がトップ賞として設定されている(ように見える)"事が原因だと推測できる。

ボカロ<人間の構図・想起されるボカロ踏み台論

 ボカコレは自称・ボカロの祭典である。
 それゆえに、この"人の歌唱がトップ賞"という認識が個人的には非常にまずいと感じている。
 褒賞というのは基本的には相手を奮い立たせるために設定されるものである。水族館のイルカは餌がもらえるからこそ高く跳ぶのであり、勉強嫌いの子供にテストで高得点を取らせるには新作ゲームやお菓子といった餌で釣るのが一番手っ取り早い。
 Ado賞という言葉にはボカロPへの餌というニュアンスが言外に含まれており、ボカロPは餌欲しさにボカロを使って曲を出す……といったイメージが無意識に形成されているのではないだろうか。
 そこに顕れるのはボカロ<人間という構図である。またこのイメージにおいてボカロは餌を得るための道具に成り下がっており、元々ボカロは人間歌唱のための仮歌ソフトとして作られたという、ボカロをキャラクターとしてみる人間にとっての負の面を否応なく思い起こさせる。

 そんな大袈裟な、と思われるかもしれないが、ボカロ界隈においてこの発想に至る下地はすでに作られていた。それが界隈を度々騒がせるボカロ踏み台論である。


①無名の状態でボカロPとしてデビュー
②ボカロで曲を作り人気を集め
③ある程度有名になったら自身の歌唱or人間に歌ってもらい、ボカロを捨ててメジャーデビュー
の流れを今回のAdo賞と照らし合わせてみると、
①すでにボカロPではあるため省略
②ボカロで曲を作りボカコレで1位になり(人気を集め)
③見事1位になれたらAdo(人間)に曲を歌ってもらえるよ!
とボカロ踏み台論に重なる部分がある事が分かる。
 ボカロ踏み台論に理解を示し、肯定的に捉えるボカロファンでもPとボカロはいつまでも一緒にいて欲しいと思っているだろうし、4年ほど前の某氏の「ボカロなんて踏み台。ボカロなんてそんなに好きじゃない」という発言に胸を刺されたような気持ちになった人も多いのではないだろうか。そうした下地が形成された状態で、ボカロの祭典であるボカコレがボカロ踏み台論を想起させる企画を発表した事。これが炎上の大きな理由であると考える。

Adoという評価軸

 炎上の理由はこれだけではない。
 ボカコレTOP100は再生数やコメント数その他もろもろで決定されるわけだが、その前には当然リスナーからの評価が存在する。例えば歌詞やメロディが心に刺さったり、ボカロの調声が素晴らしいだったり、そんな理由からリスナーはコメントなり広告なりをしてそれがランキングに反映されていくわけだ。
 ところが今回のボカコレでは、そうした評価基準の中に"Ado"という項目が入ってくる。"Adoに似合う曲か"・"Adoに歌ってほしいか"……そうした基準がたしかにできてしまい、作り手も受け手もどうしようもなくそれらを意識してしまう事になる。本来は原曲――つまりボカロ版が"完成版"であるにも関わらず、ある意味での二次創作でしかないAdoの歌ってみたに評価が左右される。これが、今回のイベントがAdoコレ・Adoコンペと揶揄される理由だ。
 「でもそれってあなたの感想ですよね」と言われてしまえばそれまでなのだが、少し気になる流れがあるのもまた事実。twitterで「Ado ボカコレ」と調べてみると、Adoにネタ曲を歌ってほしいという呟きが散見される。これ自体は個々人の呟きにすぎないが、私としては前回ランキング2位の「星界ちゃんと可不ちゃんのおつかい合騒曲」をどうしても思い出してしまう。
 この曲の躍進の根底には"ネタ曲をプロセカにいれてやろうぜw"というコイルショックに代表される2chマインドがある(というかその曲の動画師がプロセカ民泣かそうぜwwwと煽っている始末)。"ネタ曲をプロセカにいれてやろうぜw"があるのなら”Adoにネタ曲を歌わせてやろうぜw"があってもまったくおかしくない。十分な数のフォロワーがいるボカロPなり動画師なりが扇動すれば、おつかい同様、事は簡単に動くだろう。Adoに歌わせたいから、で1位が決まるなら、それはいよいよAdoコンペなのではないだろうか。

ボカロPにも得は無い

 これまではファン目線からの話だったが、ではボカロP的にはどうなのだろう。肯定派の意見として最も多かったのが、「ボカコレが盛り上がる」と「ボカロPのモチベーションupにつながる・歌ってもらったPの知名度が向上する」の2つである(ボカコレの盛り上がりについては、盛り上がりの定義が曖昧なためここでは触れない)。私はボカロPではないのでモチベーションupについては何も言わないでおくが、知名度向上については、少なくとも上記のようなマイナス分を無視できるだけのプラスはないと断言できる。
 以下に歴代ボカコレのランキング1位のボカロPを列挙するが、
2020冬→R Sound Design Works
2021春→柊キライ
2021秋→バルーン
2022春→r-906
2022秋→いよわ
と全員がすでにボカロ界隈では名の知られた一線級のボカロPであり、これ以上ボカロ界隈で知名度を高める余地があるとも思えない。2023春も同様に名の知られたPが1位をとる可能性が高く、知名度が上がると言っても元から知名度が高いのだから大したメリットにはなりえない。そもそもボカロ界隈内だけでの知名度向上なら、ボカコレ1位という結果で十分な気がする。
 Adoによってリーチできるのはボカロ界隈から離れたところにいる、ボカロに興味のない層だって? 個人名を出すのは悪口になりかねないので控えるが、Adoが一躍人気になった前後でAdo版とボカロ版を両方出して話題性と知名度upを狙ったボカロPは何人かいた。……Ado版のあるボカロ曲の再生数とその後の再生数の推移を見てもらって、あとは読者諸兄に判断して欲しい。1つ言える事は、作詞作曲という"裏方"が別にいて、なおかつ彼らが目立っているボカロは音楽ジャンルの中でもかなり特殊であり(それを指し示すタイムリーな話題がフジテレビの"千本桜/Ado"である)、ボカロに興味のない層にとってのAdoは作詞作曲歌唱までこなすスーパー歌手だという事だ。
 さらにここまで事が大きくなってしまった以上、1位を取ったボカロPには2種類の選べる罰が待っている事になる。
①Adoに"歌ってみた"をしてもらいボカロ過激派からバッシング
②Adoに"歌ってみた"をしてもらわずAdo過激派からバッシング
もちろんボカロPには何の非も無いわけだが、どこの界隈でも過激派は過激派。結果、どっちを選ぼうがボカロPのツイートには見えない引用RTが大量につく事だろう。なんだこれ。

で、結局何が悪いの?

 ではここで一度話を整理しよう。どうしてAdo賞がここまで批判されるに至ったか。それを端的に言ってしまえば、"ボカロがメインであるはずのボカコレでAdo、もっと言えば人間が主役になってしまっている"からである。Adoの歌唱が大きな価値のある賞であるという認識から、ボカロ版がその賞に辿り着くまでの過程のようになっており、また曲の評価にも"Ado"が入り込んでくる。ハッキリ言ってしまえばボカロがおまけになっているのだ。
 別に小さなイベントでそれをやるのは大して荒れないだろう。それこそボカロ厨や原曲厨が多少騒いで終わりだ。しかしボカコレは自称ネット最大級のボカロ楽曲投稿祭・ファンもクリエイターも楽しめるボカロの祭典であり、それに見合う規模のイベントになってしまっている。そんな中でファンとイベントの趣旨をはるか彼方に置き去りにする企画がTOP賞扱いされれば、ここまで炎上するというものである。
 ここで重要なのはAdoだから炎上したわけではないという事。小林幸子が歌おうがレディー・ガガが歌おうが同じように炎上していただろう。この件に関してAdoは完全に巻き込まれた側であり、ある意味で被害者だとも思う。

1年ほど前に、タイアップ企画としてプロセカに「うっせぇわ」「踊」が実装された時も賛否両論といった感じであったが、このインタビューや今回のボカコレに対するTweetを見てもらえば分かる通り、Ado本人はこれらの企画に対して"どのような反発があるのか"をきちんと理解しているように見える。インタビュー中にあった、"ただ『プロセカ』とボカロファンの自分としてはAdoってことは考えないでほしいなと思います。ただAdoの楽曲が追加されるだけであって、皆さんにはバーチャル・シンガーやオリジナルキャラクターに意識を置いてほしいなって思いますね"という言葉はその理解がないと出てこない発言だろう。少なくともAdo賞の何が悪いのかが分からないと言っている人たちよりは、ボカロファンのボカロ愛が何たるかについてよく分かっていると感じる(そう思わせるよう発言しているなら大した役者だが)。そもそもAdoも事務所に所属する歌手として仕事を選ぶ事は難しい。この件に関して彼女を責めるのはお門違いだろう。
 では一体誰が悪いのか? 私は、ボカコレ運営だと考えている。

最悪のさらに斜め上を飛んだボカコレ運営

 今回の企画には"1位の曲をAdoが歌ってみた"という根幹を崩さず、炎上をおさえる道筋がいくつもあった。"賞化"を防ぐため、ほしのディスコ賞のようにAdoが選んだという体で1位の曲を歌ってもよかったし、Adoコレを防ぐためランキングが定まった後サプライズで発表しても良かった。もちろん多少の反発はあるだろうが、穏健派からのそれはほとんど無くなるはずである。最悪、TOP100でなくルーキーの1位を対象にすれば、ルーキーの知名度upにつながるかもしれないという擁護が出来た。しかしボカコレ運営が選んだのは草も生えない修羅の道である。TOP100ランキングの開始10日前という発表時期も味わい深く、開きなおって1か月前に発表するならまだしも、残り10日という微妙に短い期間のせいでボカロPのモチベーションupにつながるという主張も半壊している。そもそもこの企画は"発表したら思いのほか荒れた"という代物ではなく、"多少ニコニコのボカロ文化を知っている人が見れば誰がどう見てもあかんやろと気づくレベルの爆弾"であり、こんな企画を選択した日には格付けチェックなら2段階降格どころか一発"映す価値無し"である。くどいようだが、ボカコレは自称ネット最大級のボカロ楽曲投稿祭・ファンもクリエイターも楽しめるボカロの祭典だ。今回の企画がAdo側とボカコレ、どちらから持ち掛けられたものなのかは分からないが、こんなものを通した人たちがボカロの祭典を運営している事に失望したボカロファンも多いのではないだろうか。


むすびに ~今のボカコレ運営にボカロの祭典は作れるのか?~

 以上が、Ado賞がここまで荒れる事になった理由である。この炎上は人間歌唱が栄誉ある賞のように扱われているという事に端を発しており、決して歌い手アレルギーが問題の本質ではない。今回の件を批判している人のほとんどは、ボカロ・ボカロ曲に対しては深い愛着を持ち、ボカロ文化の発展を願っている。Ado賞への批判に対して批判をしている人たちには、この事だけでも知っておいてほしい。


ボカコレは年々肥大化してきており、様々な企業が一枚嚙むようになってきている。キービジュアルにいる見慣れないキャラはコロコロの漫画の主人公であるし(なぜ縁もゆかりもないオリキャラがキービジュアルにいるのかはさっぱり分からないが)、褒賞に目を向ければ東武トップツアーズ賞(旅行会社)、関内デビル賞(テレビ)、802Palette賞(ラジオ)と幅広い業種の賞が並ぶ。
 ボカロ文化がここまで大きなイベントを開催できるようになったのは喜ばしい限りなのだが、規模が大きくなるほどボカロ文化や界隈に詳しくない、あるいはボカロにさほど興味のない人間が加わってくるようになる。そこでしっかり舵を取り、ボカロファーストをぶれさせないのがボカコレ運営に求められる役割なのではないだろうか。今のボカコレ運営にその役割が果たせているとは到底思えない。これからボカコレは開催頻度を上げていくという事だが、このまま軌道修正できなければ間違いなく空中分解を起こすだろう。全曲チェッカーなどで文化の下支えをしてくれる人が去り、その人たちに支えられていた下の方から徐々に崩れていき、最後に残るのは形骸化したイベントだけ……。かつてのmmd杯の轍を踏まないよう、これからのボカコレ運営に期待したい。

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