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キリストの愛に倣う(第一説教集6章1部試訳) #31

原題: A Sermon of Christian Love and Charity.  (キリスト教徒の愛について)

※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です): 


愛は最も大切なものである

 キリスト教徒に教えられる善のなかで、何よりも多く語られ日々説かれなければならないものは愛です。愛にはあらゆる正しい行いが含まれていて、愛が朽ちると美徳が消えて悪徳が生まれ、この世の破滅や破戒に至ります。それにもかかわらずほとんどの人間は愛を食欲より大切ではないものとしています。そのような考え方は神と人間の両方にとってどれほど忌み嫌われるものであることでしょうか。人間は自分には愛があるのだと言い張ってさえいます。この説教では人間の勝手な思い込みからではなく、救い主イエス・キリストがまさに発せられた言葉から、愛の真の意味や働きについてわかりやすくお話します。愛を奨励するイエスの御言葉を聞けば、誰もが自身を見つめ直すことができるでしょう。自身が真の愛を持っているかどうかをまるで鏡を見ているかのように、誤りなくはっきりと見ることになります。

二つの愛~神への愛と隣人への愛

 愛とは心のすべてをもって、命の限りに、また持てる力と強さの限りに神を愛することです。「心のすべてをもって」というのは、神の御言葉を信じ神に信頼を置くということです。また天と地にあってわたしたちが愛するすべてのものにまさって神を愛することに、わたしたちの心も精神も思念もが向けられるということです。「命の限りに」というのは、わたしたちの楽しみや喜びが神の誉れに向けられるということです。神とともに生き、神の他はすべて捨て、すべてのものにまさって命を神に従うことに向けるということです。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない(マタ10・37)」とキリストは言われています。「持てる力と強さの限りに」というのは、手と足も、目と耳も、口と舌も使い、肉体と精神のすべての部位と力をもって、神の戒めを守り満たすということです。これが愛について始めに言いたい大切なところであるのですが、これですべてではありません。愛とは善い人もそうでない人も友も敵も含めて、すべての人を愛することでもあります。愛とは善くないことをされても、言葉においても態度においても実際の行いや振る舞いにおいても、すべての人に対して善い心をもち、すべての人のためにわが身を使うことでもあります。これはキリストがわたしたちにお示しになり実際になされたことです。

聖書にみる二つの愛

律法における主な教えについて尋ねてきた律法学者に、キリストは神への愛にかかわって次のように言われました。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい(マタ22・37)。」また、わたしたちがお互いに持つべき愛について、キリストはこのように言われます。「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか(同5・43~47)。」これは隣人への愛について救い主キリストが実際に語られた言葉です。

例外なく隣人を愛せよ

ファリサイ派は極めて有害な慣習と偽りの解釈や虚飾をもって、神の生ける御言葉が持つこの純粋さを貶めてほとんど無にしてしまっています。彼らは愛が友だけにかかわるもので自分に愛を向けてくる人を愛せばそれでよく、敵を憎むようにと教えています。それゆえキリストはこの言葉をもって神の愛の教えについて真で明らかな解釈を示され、ファリサイ派の考えを退けられました。わたしたちは友も敵も含めてすべての人間を愛すべきで、そうすることで御恵みを受けるのであり、そうしなければ御恵みを受けられません。永遠にして天なる父がわたしたちをご覧になり、わたしたちをご自身の子としていただくこと以上に、わたしたちが望むことなどありましょうか。わたしたちが確かに心に置くべきは、キリストが言われるように例外なくすべての人間を愛するということです。そうしなければキリストが言われるように、わたしたちはファリサイ派や徴税人や異邦人と何も変わりなくなります。その報いを受け、神の選ばれた子らの一人となることからも、天の永遠の相続者となることからも排されてしまいます。

キリストが示す愛その1~神への愛

 キリストは真の愛にかかわって、すべての人間が何よりも神を愛し、友も敵もすべてを愛すべきであると教えられています。キリストご自身もまさにそのようになされ、敵にも道を説かれ、ご自身に敵意を向ける人々の過ちを正しそうとなされ、正せない場合はその人々ために祈られました。キリストはまずもって父である神をすべてのものにまさって愛されました。キリストはご自身の栄えや冠を求めずに父の栄えと冠を求められました。キリストは「それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方の御心を求めているからである(ヨハ5・30)」と言われています。キリストは悲惨な肉体の死を迎えられる際にも父の御心に適おうとなされました。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに(マタ26・39)。」

キリストが示す愛その2~隣人への愛

また、キリストは友のみならず敵をも愛されました。キリストの敵たちは心の中でキリストに対して極めて大きな憎しみを持ちその舌でキリストについてあらゆる悪口を言っていて、行いと振る舞いにおいては力の限りキリストに従っているようにもしながら、キリストを死に至らしめました。しかしどんなに彼らがご自身について悪く言おうとも、キリストは彼らへの愛をお捨てにはなりませんでした。むしろなおも彼らを愛され、愛について説いて彼らが持つ偽りの教義や邪な生き方に異を唱えられ、彼らに対して善を行われました。彼らが悪口を浴びせてきても、キリストが悪意ある言葉で言い返されることはありませんでした。彼らが打ちかかってきても打ち返されることはありませんでした。ご自身が肉体の死の苦しみを持たれても彼らを殺めようとも脅かそうともなさらず、むしろ彼らのために祈られ、あらゆる事柄を神の御心に委ねられました。「屠り場にひかれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開かなかった(イザ53・7)」のであり抵抗もなされませんでした。キリストは嫌悪の情も持たれずに、悪い言葉を口にされることもなく死に向かわれました。

キリストの愛を誤りなく知るべし

 わたしはみなさんに愛とはどのようなものであるかをキリストの教えによって、またキリストご自身を例にとってお示ししています。キリストがどんなところにおられるのかを、もっと言えばキリストは愛の中におられる御子であられるということを、誤りなく知りましょう。ほとんどすべての人間は愛のなかにあると言っても、自身の心と命と言葉しか確信していません。そのように自身を欺くことなく、自身が真の愛のなかにあるかどうかを心から考えてほしいのです。そもそも食欲や利己心に従わずに自身を心から神に献げて神の御心と戒めのすべてに従う人は、自身がすべてのものにまさって神を愛していると確信することができます。しかし心から神を愛していない人は、そのようなふりをすることしかできません。

キリストを愛する者は戒めを守る

キリストは「あなたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである(ヨハ14・15)」と言われます。さらにこうも言われます。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。私を愛さない者は、私の言葉を守らない(同14・23~24)。」このように善い心をもって、友人であれ敵であれすべての人々に言葉と行いを正しく向けるのが愛を持っている人です。全能の神は必ずやそのような人を愛する御子のもとに導いてくださります。「これによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者は皆、神から出た者ではありません。きょうだいを愛さない者も同様です(一ヨハ3・10)。」


今回は第一説教集第6章「キリスト教徒の愛について」の第1部「キリストの愛に倣う」の試訳でした。次回は第2部の解説をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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