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コラージュ展に寄せて

今日から6月というこの日に、外苑前にあるギャラリーDAZZLEで始まるグループ展示に参加します。

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2021 Mirage Collage  Assamblage vol.9コラージュによる6人展

今年9回目を数えるこの展示には、私は今回で3回目の参加となります。

コラージュという技法をテーマに6名が集い、毎回それぞれの方の切り口や見せ方に新しい気づきや感動があり、搬入と設営の時がまた、インプロビゼーションの面白さに満ちているのです。

作家の皆さんのことは追々書いていきたいと思っていますが、今回の自分のテーマとなったものやこと、経緯について、少し横道に逸れますが、よろしかったらお付き合いください。


昨年2020年5月2日に父が亡くなり、コロナ禍にあっては面会もお弔いも、訳ありのような密やかさを強いられ、いまだにどこか茫然としている自分を感じています。

介護施設や病院にお世話になって3年、最後は誤嚥性肺炎により緊急搬送され、そのまま面会叶わずで半年が過ぎ、そろそろお見舞いを、と聞かされた矢先に旅立った父でした。享年87歳、大往生です。

生前、特に幼少期は容貌もそっくり生き写しと言われて、何につけ好みもよく似ていた父には、大きな声で叱られたという記憶がなく、さりとて子供心になにがしかの遠慮がある少し遠い人であり、でも「大好きな自慢のパパ」ではあったと思います。

母親との関係に比べると、父の事はよく知らない、父の母親である祖母と同居していたにもかかわらず、その祖母のこともよくは知らないまま、祖母、両親とも鬼籍に入りました。

戦後、満州から大変な思いをして引き揚げてきたという祖母と父。父からも祖母からも当時の話をきちんと聞いたことはありませんでした。が、長女が中学校の宿題で戦争に関する聴き取りの課題が出て、実家で父に話を聴きたい、と申し入れた際に初めてその一部始終を知ることとなりました。孫娘からの申し出には父も嬉しかったのか、口も軽く滑らかに、驚くほどの時間をかけて引き揚げ時の実態が語られました。

それは、小学生の子供にはあまりにも残酷な体験であり、父のその後の人格形成には嫌でも影響があっただろうと思わされます。

父はいわゆる優等生だったらしく、母子家庭のひとりっ子で、祖母いわく手のかからない子供だったそうです。

祖母は、看護師として産婆として保育士として働き、父の教育の為に惜しむ事のなかった人で、その結果父は東京芸大の建築科に進学しました。そして建築家として仕事をして生涯を終えた訳ですが、実家に週末通っていた頃、どこでどんな仕事をしたのか、改めて聞いてみました。父の場合、仕事柄、幸いにも建物が残っていれば、孫たちがそこに訪ねて行く事も可能な訳なので。

気分がのれば、あれこれ話すのですが、行ってみたいかと聞けば、別に、と素っ気なく、今ひとつ盛り上がらない会話…。

そんな中で、ふと、お父さんはやりたかった仕事とか、やり残した仕事とかある?と聞くと、ない!と、即答したのでした。

え?ない?その返事には逆にびっくりしましたが、まあ、限界だろうな、とか、自分がやりたくて出来るものでもない、と言うのを聞けばなるほど確かに、と思わされます。

やり残した事はない、と、言い切った父を呆然としながら見ていて、強がり?でもそんなふうに言えるのは幸せなことと言っていいのだろうな、という思いと共に、それ以上にその一言で、残された者への負担を取り除いてもらったという感覚が強く残りました。やり残していないんだね、という確認が本心からかどうかはさておき、聞けたという事。

父は本来甘えん坊だったと思うし、ちやほやされたかったはずだし、カッコつけたかったんだろうな、と思うのですが、境遇や環境の中では許されなかったり、願っても出来なかったのでしょう。その不満を晩年私と弟にぶつけてきたんだな、と思っています。

叱られた記憶のない幼年期を過ぎてからは、大喧嘩もたくさんして、特に晩年は人が変わったようにわがまま放題な父に翻弄され疲労困憊して、もはや長生きしていることを呪ったりする親不孝な娘でした。

ぼんやりしながら、思い出すのは小学生の頃の記憶です。両親のおしゃべりの中で音楽に関する話題が多くありました。大人の話を耳をダンボにして聞いていた私は、突拍子もなく質問したりするので、周りの大人たちから戦々恐々とされる事も多かったのですが、マリア・カラス、という名前が頻繁に出た事を覚えています。

アリアって何?マリアじゃないの?ジャッキーとかオナシスとか何?あ、サザエさんに描いてある!

などと興味津々の中で、マリア・カラスのコンサートに行きたがっていた母を思い出します。

当時、マリア・カラスの写真を見るとすればレコードジャケット、雑誌とか新聞、といったメディアしかありません。

目と鼻と口全部が立派!とにかく派手!衣装も派手!声もなんだかすごいけど、オペラはよくわからない…カラスって鳥のカラスは関係ないのね、などという妙な印象が雑に刻み込まれました。

父いわく劇場空間で映える美貌、とか遠くの席からでもはっきりわかる顔、みたいな事を言っていて、母がアイラインで目尻をひゅっと上がるように描くのも、この人の真似なのか?と見ていました。

成長するにつれ、さまざまな舞台経験をさせてくれた両親のおかげもあり、いかにマリア・カラスが偉大であるのかはちゃんと理解できるようになりました。ディーバという映画に母とはまったことも懐かしい思い出です。

社会人になって就職した会社がいわゆるバブル景気のせいか、やたらと経費があったのか?雑誌の定期購読をするにあたり、海外の雑誌のリストから好きなのを選んでいい、と言われたのです。飛び上がるほど嬉しかったのですが、自分では買えないような雑誌をいくつも選んで、しかも場所を塞ぐから処分するというのを貰い受け、夢中でスクラップしていました。

そのスクラップ帳は未だに捨てられず、なぜなら今でも好きなものしかない、からなのです。とはいえさすがに断捨離しようかな、と久しぶりに開くとマリア・カラスの切り抜きが残っていました。

頬杖をしてみおろすような目線のマリア・カラスの写真はもう30年以上前に切り抜いたもので、写真自体は1950年代から1960年代あたりに撮影されたもの。しかしその写真たるや、古びるどころかむしろ新しい。思わずじっくり眺めて、上記のあれこれを思い出し、少し前に見た」私はマリア・カラス」という映画を思い出したのでした。

映画は写真と当時の映像、本人の手紙をファニー・アルダンのナレーションで綴るドキュメンタリー的な、ユニークな作品です。Amazon primeで視聴できます。

生い立ちから、セレブリティとしての生活や歌手としての身体的な苦悩など、見ていて胸に迫るエピソードだらけの映画です。

人生における光と影のコントラストの強さは、ギリシャ彫刻のような容貌のようでもあり、見る人を惹きつけて離さない強さがあります。

そんなこんなでマリア・カラスから逃れられず、その人をテーマにコラージュ作品を作ることに至りました。

私にとってのマリア・カラス、なのかもしれませんが、この時期の自分の心境を残すという事でもあるかと思います。展示作品についても少しずつ書いて行きたいと思います。引き続きよろしかったらお付き合いください。最後までお読みくださり、ありがとうございます。

        ツカモトリカ/ ricaro










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