3.11について書いてみよう、と思いました

 逆に、趣味とはいえ書き物をしていて、なぜ今日までそう思わなかったのか、というくらいの話かもしれませんが。

 今日の帰り道、車で流れてきたふくしまFMの夕方ワイド番組では、震災にまつわるメールが多数寄せられていた様子。
 その中のとあるメールを聞いて、ああ、そうやって言葉にするだけでも何か意味があるものなんだな、と思い、この記事を書くきっかけになりました。

 ここのところFlagmentで、震災と音楽の絡みのお話を聞く機会もたくさんあったので、その影響もあっての、なのかもしれません。

 それに、11年も経つと、いくら鮮烈な記憶でも薄れるもの。
 東北の人間とはいえ、僕は報道などで取り上げられるような甚大な被害に見舞われたわけではないので、お前ごときに何を書き残すことがあるのかと思われるかもしれませんが、そんな備忘録的な意味合いも込めて、今日は書いてみます。

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 11年前の僕はまだ、新学期を目前に控えた高校1年生でした。
 倫理の授業中、虚を衝くように教室を満たした緊急地震速報は、当時から設定カスタマイズ大好き野郎だった僕の携帯からは確か鳴っていませんでした。
「何今のは……まあいいわ続けるぞ」という倫理の先生の戸惑いと油断もすぐさま打ち崩すように襲い来る揺れ。
 大急ぎで机の下に潜るも、後にも先にも経験のない揺れには身体も机も全く安定できずに左右に振れ、机の足にしがみつくので手一杯。

 揺れが一旦の収まりを見せた直後、堰き止めていた水流のように生徒はぞろぞろと校庭へ流れ出していきました。
 たちまち後を追って来たのは、吹雪。異様すぎる光景に当時は世界の終わりさえ感じましたが、不思議なもので11年後の今はまだギリギリ雪が降りましたね……(もうそろそろ今年の雪は見納めでしょうけれど)。

 電車通学の人たちは体育館で、しかもだいぶ待った人もいたようですが、徒歩15分圏内に住んでいた僕はとりあえず徒歩で帰宅。
 集合住宅でしたが、アスファルトのひび割れと騒然とする住民とでこれまたディストピア感が強烈に。家に入ろうとするも中は家具の倒壊で到底入れる状況になく、おまけに水回りの雨漏りまで発生していたため、親の帰りをエントランスで待つことに。
 ウォークマンから流れるラジオ。いつも朗らかな男性アナウンサーが、非常に緊迫した放送を延々と続けていました。いい時も悪い時も、この時からラジオは僕のそばにいたんですね。

 学校再開までの流れは正直もう曖昧です。通年通りに4月頭から行けたんだったっけかなあ。
 とかく、そうなるまでは避難生活。親が物資を手配するのを屋根の下で待っているばかりの日々でした。なにせ子供は被曝するわけにいかないと、かなりしっかり守られていた記憶があります。

 人生で初めてのベースが避難先に届きました。
 当時の特撮ドラマからは爆発、ビル破壊、水中戦なんかのシーンが全カットされました。
 RADWIMPSの『絶体絶命』が3月9日に出たばかり。バンドキャリアに残るカオティックと閉鎖的世界観が気味悪いほど現実とマッチし、ひたすらそれを聞き続けていました。
 しかし、合間に流れてくるのは『I love you & I need you ふくしま』。
 まともに入浴もできない、外の空気も吸えない、閉鎖空間でマイクロシーベルトパーアワーという全く馴染みのない単位がループし続け、耳元では地獄みたいなアルバムと少し無理のあるエンカレッジソングが交互にリピートし——
 平然と過ごしていたけど実は心の中しっちゃかめっちゃかだったのかもしれないなあ、などと今は。

 久方ぶりのお風呂は休石温泉大田屋だったと記憶しています。ただでさえ髪ギシギシのシャンプーが、殺到する避難者に備えてか相当薄められ、ただそれでも恵みの湯船とシャワーがとにかく幸せでした。

 悲しきかなガイガーカウンターにはもうすっかり目が慣れてしまった現在ですが、当時は事態が落ち着くまで本当に長かった気がします。
 発電所の状況は刻一刻で変化を続け、いつ、どっちに転ぶかわからない。明日にはここも死の街になっている可能性だって。
 平気なふりをしながら、でも絶対そういう怯えはどこかにあったはずで。
 ただ、当時の自分には、と思いきやそれがもし今の自分だとしても、その状況をどうにかする手立てなど持っているはずもなく、ただ指を咥えてみているしかなかったわけです。
 以前Flagmentで盛さんから「9.11を間接的に経験しあまりにも大きすぎる脅威を知った」というお話がありましたが、僕にとってのそれのようなものだったのかもしれません。
 自然、あるいは人工物であれ人の手に余るものであれば、その脅威の前に人はこうも無力なんだなと、書きながらにして再認識してしまいました。

 去年の2月の余震で、そういう色々の恐怖をまた思い出し、僕は部屋の中身をかなり大幅に減らしました。
 どこの何がどういう角度で倒れても自分は守れるように、そして最低限これとこれだけは、すぐ持ち出して出られるように。
 教訓、というとどこか安っぽくも聞こえてしまいかねませんが、ああやっぱり、こんな自分にですら震災の経験っていうのは深く根を下ろしてしまっているもんなんだなと、我がことながら少しびっくりしました。

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 つまりは僕のベーシストキャリアは震災と共に始まっているわけですが、あの時避難先に届いたベースも、初心者用の安物なだけにガタが来て今は手元を離れました。
 ただ、あのベースを毎日毎日飽きもせず、のち登校可能になった高校の部室でひたすら弾き続けた僕がいたし、その甲斐あって人並みにベースを弾けるようになった僕が今ここにいる。
 たかだか音楽の趣味に、なにやらそういう大きな「意味」を無理に載せたがるようなことはしませんが、断言できるのは今この瞬間を迎えていることは兎にも角にも幸いなことだということです。これに尽きるというか、僕の陳腐な文才ではこれが限界です。

 故郷を立ち入り禁止にされたわけでもないし、大切な人の命を押し流されてしまったわけでもない。自分程度の幸運さでは、そういうあまりにも大きな悲しみや苦しみが到底推しはかれるような身分には無いのだと思うと、僕は11年経った今でも自ら「被災者」と名乗ることにしっくりきません。同じ思いの東北人は意外と多いのかもしれない。
 それでも、時にこうやって思い出して、社会や世界はいざ知らず、その経験が少なくとも自分の人生においては何であったのか、くらいは思い馳せることが、僕にとっては自分のためになることなのかもしれません。

 こんな僕でも、3.11とは今後一生付き合っていくんだろうなと思うと、どことなく不思議な気持ちです。

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 不適切な言い回しがありましたら、ご指摘ください。
 追って浮かんだ思い出があれば書き足しておきます。

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