大統領選挙のアメリカにて

ホストの先生が下馬評を見て一喜一憂していたり、買い物で通りすがった人と選挙の話をしたりしているのを横目で見ながら、「日本ではここまでみんながオープンに選挙や政治のことを語るだろうか」とふと考え込んでしまった。

結果は、ヒラリーが負けた。トランプが勝ったというか、なんとなく「ヒラリーが負けた」という感じがした。

国境の州であるニューメキシコは、ヒラリーが勝った州だ。州の経済中心で大学町のアルバカーキはリベラル寄りだし、この州は移民もネイティブアメリカンのようなマイノリティも多い国境の州、それでもトランプ支持者がちらほらいたようだ。大学の中と外では空気が違うのだ。

選挙の翌日は暴動が起こるでもなく、大学の中はどんよりした空気が流れていた。もっとも印象的だったのは、女性の教員が話しながら泣き出してしまったのを目撃したことだ。選挙で一般人が涙を流して泣くということが、かつて身の回りであっただろうか。

一般人というか、働く女性、マイノリティのことを研究している研究者が、初の女性大統領を目指したヒラリーの敗北と、その対立候補であった、性差別や民族差別、ミソジニーを身にまとったトランプの勝利にショックを受けるのは頷ける。現地にいるからだとは思うが、政治についてこれほどまでにショックを受けたのははじめてだと思う。

ヒラリーは女性であるという以外、負ける要因がなかったのか、というのは、にわかの私にはわからない。しかし、「あの」対立候補が勝ったということはどういう意味かは考えなければならないと思った。高潔なオバマ大統領のイメージとの落差もまた、気になる。

しかし、ホストの先生が「日本に移住したい」などと言っても、トランプ政権と比したとき、日本の政治にどのくらいの魅力があるだろうか。すくなくとも「ガラスの天井」はアメリカよりずっと低く分厚い。民族差別? 女性差別? 蓮舫議員の騒動を見よ。私はどうしてこれまで、涙を流して、声を上げて泣かなかったのだろうか。

ヒラリーの敗北に対して、もらい泣きする権利が、私にはあるだろう。私はいつか、泣くだろう。泣かずに前を向いて、進むか、泣いてもわめいても、前に向かって歩みを止めないか。泣かないことにこだわっていたような気もするが、泣いてもいいのだな、と思った。

世界は頭でっかちなエリートのものじゃないのだ。高潔なことがときに仇になる。泥臭く考え、自分の持つアドバンテージを小狡く使うこともときに必要だ。

あなたのやりたいことは何か。黙っていたら何もしてもらえないけれど、聞けばみんなが親切に教えてくれ、手伝ってくれるアメリカで、「私のやりたいことは何か」再び、考えている。

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