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第二言語を使うということ

昨日は夫の道場のお別れ会に行ったりしたんだけれど、夫が英語を割と「ふつうに」しゃべっていて、「!?」となる。うーむ。本人曰く「ときどき聞き取れてないよ」とのことだけど、傍目には「うまくいっている」ように見える。そのあたりが大事なんじゃないかと思った。

夫は社会人になってから会社でなぜか受けてるTOEIC600点とか700点とかなんとか言ってたので、かなり危惧していたんだけど、4ヶ月間、週2くらい道場に行き、ときどき無料の英会話講座に行き、さらにときどき家の用事のために事務所に行くという荒行をやっていた、のが練習になったのか。(実は夜にコツコツ地元のニュースを読んだり聞いたりしていたりしたのも知っているけど)コミュニケーション能力が高いってことかしらん、と思いつつ……。子連れだからどうしても「自分で解決」が難しい局面があるから心構えが違うってのもありそうだ。

私なんか、TOEICは900点くらい取ってても、英語で話しかけられると単文がようやくだった気がする。やっとこさっとこ「Yes, thank you」とか……。

プロダクション能力が低かったっていうことなのかなんなのか、と思ったけど、自分の場合は、母語と第二言語というものの関係がわかるまで、結構時間がかかったなーという感覚がある。

ひとつには、思考と母語がすごく密接に絡み合ってるせいで、第二言語を使うと言うことがどういうことかわかっていなかったのだ、と思う。考えるなり言語になって出てくる母語と違って第二言語は、頭で組み立てておかないとなかなかすぐには出てこない。たぶん、第二言語は、思考に使うんじゃなくて、人を動かすために使うことばとして使うのが第一目標なのだけど、私の場合は、そういう言語使用については実は母語でも運用能力が低い。人に依頼するのがめんどうくさくて、自分でやるみたいな……。そんなことに思い当たってため息。

あと、学習者としての態度というか、「間違えるのが怖い」みたいなのでずっと英語を書いたり話したりするのが怖かった気もする。その怖さについては、乗り越えるのにずっと時間がかかった。たぶん、まだ「乗り越えられていない」のだろう。

こちらにきて、4ヶ月間で、質問とか依頼とか、確認とか、ものすごく使った。これは論文の読み書きをしててもなかなか出てこないものだったりするんだなあと思った。生活をするということが、どういう言語活動に結びつくのか(どれが必要不可欠な対人コミュニケーションなのか)実感した4ヶ月であった。

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