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〈そこにあるもの〉 の発見

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5月20日に、熊本県にある馬見原橋を見てきました。
設計は青木淳+中央技術コンサルタンツで、竣工は1995年6月、構造は変形フィーレンディールトラスの単純梁です。

道路がそのまま導かれた上部の橋(上弦橋)と逆アーチを描いた歩行者専用の橋(下弦橋)が上下に重なり合った構成です。青木淳建築計画事務所のHPには、「唇の形」と表現されています。建築などを見に行く時は事前情報をけっこう入れて行ってしまうのですが、今回も例に漏れず見に行く前に事務所のHPだけでなく『原っぱと遊園地』や10+1の記事を読んでしまいました。

ここではそういった先入観に依らずに、自分がその場で見たまま感じたままを、できるだけ自分の言葉で書き留めてみたいと思います。

* * * 

1. 頭をぶつけそう ――〈そこにあるもの〉

下弦橋。中央は3m近くの天井高があるが、当然端のほうは鉄骨が目の前まで迫っている。

下弦橋を歩いている時に考えたことです。こんなに橋桁で頭をぶつけそうなのに、竣工から20年経っているのに、クッション材のようなものが全くないのです。建築を見に行くと時々見かける「残念な不純物」としてのクッションは一切見かけません。確か太宰府にある隈研吾氏の設計したスタバには、木材の角にクッション材が沢山はりつけてあるそうです。
これと同じようなものに、デザインされたグラフィックサインの前に立て看板が置かれたり、テプラが貼られたりすることがあります。これは、デザインの持つ意図が正しく受け取られなかった時に発生する事態であり、Twitterなどでは「デザインの敗北」などと呼ばれたりしています。

それに対して馬見原橋は何故そのような対策が施されていないのだろうと考えてみたのですが、それはもしかすると建築ではなく"橋"だからかもしれません。土木インフラ、その中でも橋というものは、人々にとっては作られたものというよりは〈そこにあるもの〉として認識されているような気がします。

橋の多くは、人間からどう見えるか、といったことは優先順位としては低く設計されていると思うのです。インフラとして役割を果たすために、必要な強度やコストパフォーマンスを優先させた設計が多いのではないでしょうか。つまり、目的を果たすためにデザインされており、意図を伝えるためにはデザインされていない、というのが大半の橋の実情なんだと思います。結果的に橋は、人間に対してメッセージを発することなく、ただただ〈そこにある〉だけの存在になります。そうなると、たとえ橋桁で頭をぶつけようが、それはどうしようもないことで、ぶつけないようにするしかありません。いま頭をぶつけたのは、交通を成立させるためのものであって、それを成立させている以上、仕方なく〈そこにある〉存在だからです。

北側川岸から見る。下弦橋のはみ出した部分は主構造の橋桁から片持ちとなっているため、南側とは異なりH鋼断面がそのまま露出している。

ここでは下弦橋へのアプローチ部分は明らかに脇役に回っていました。それは当然で、しっかりと人や車が対岸へと渡れるように目的に適った、意図なきデザインの立派な上弦の橋が〈そこにある〉からです。

2. 歩きにくい ――デザインの不可視性

橋へのアプローチ。使われているものはほとんど土木の標準仕様のもので、「建築家の作品」には見えない。

下弦橋の手摺。横桁にボルトで接合した手摺支柱に、橋の両側面は鋼管を溶接(写真左)、穴の回りはワイヤー(写真右)を用いている。

塗装面は、鉄骨とコンクリート側面のみ。上弦橋を渡る時には塗装されている箇所はほとんど見えない。

ディテールについて、青木淳氏は唯一手摺のみをデザインしたそうですが、とてもデザインされたようには見えません。おそらく、周到に意図された外観を呈することを拒んだ結果でしょう。彼はデザイナーでありながら、機械的にコストや役割だけに最適化した設計を行ったのではないかと思ってしまうほどです。

対岸への通行だけを目的にこの橋を使う人なら、間違いなく下弦橋は通りません。下弦橋の方がたわみが大きく、わざわざ上ったり下ったりするのは大変面倒ですし、勾配が急で歩きにくい下弦橋を渡るより、上弦橋を渡った方が楽だからです。

ただでさえ全体形状は通行する人から見えない(塗装していることすら分からない)のに、唯一ディテールとしてモノをデザインした手摺までもがデザインされているようには見えない。ここに、この橋の本当に面白いところがあると思います。馬見原橋で実現されているデザイン(全体形状、手摺のディテール)には、モノが人間のために最適化されるような意図が見えないのです。やはり、彼は〈そこにあるもの〉としての橋をこの場所に出現させたかったのではないでしょうか。

3. ホームレスの家みたい ――発見の空間

上弦橋と下弦橋の割れ目部分。デッキは根元まで連続している。勾配は急だが、座ったり横になったりするには心地よい角度。

橋が上下に割れているその付け根の部分は、根元に近づけば近づくほど上弦橋の桁が迫ってきて窮屈になります。そこに組み合わさってくるのは這い上がっていく床面です。上下に挟まれた空間、そして通行人からは見えない隠れた場所。

ここは、よくある河川敷の土手と橋の下の隙間と同じ構成なのです。よくホームレスの方が宿を作ったり雨をしのいだりする場所です。子どもの頃、こういう場所がとても居心地が良かったのを思い出しました。この橋には、そういった「ここ」ではない、匿名で、普遍的な場所の発見があります。しかも、その発見が自然ではなく人工物に由来した体験なのが面白い。人間が自然と生活をともにする時代が終わって長いこと経ちますが、既に出来上がってしまった世界の中にもまだまだこんなに面白い場所があるんだよ、と語りかけてくるようです。設計者が想定していたのかは分かりませんが、〈そこにあるもの〉の空間には、新しい空間体験ではなく、発見の空間があります。

* * *

小見出しは3つともネガティヴな言葉が先行してしまいましたが、あくまで全て賛辞です。この橋には不思議な体験があります。

例えばスタディで作った模型を覗くと、そこにはディテールの無い抽象的な空間があり、一般に「良い建築」とされるものは、模型の中にある抽象的な魅力を最大化させるために丹念に作り込まれた美しいディテールが存在します。この橋の下弦に潜り込むとすぐ目の前に、手で触れられる位置に、ボルトを何十個も使ってガチガチに固めた太い鉄骨がたくさん現れます。しかし、それが全然気になりません。それは、その接合部そのものも〈そこにあるもの〉になっているからなんだと思います(事実としてそうなのですが)。
〈そこにあるもの〉は人の居場所のための素材でもなければ、美しいディテールでもありません。橋が橋になるために用意された、人間の立ち入る隙の無いモノたちの集合です。するとこの空間について考えるということは、つるっとした抽象的な空間でもなく、暖かみや味のあるテクスチャや洗練されたディテールなどの具体的なモノでもない空間について考えることになります。

〈そこにあるもの〉がただ当たり前に組み合わさっているのに、どこかが違う。そこに佇んだ時の心地よさや安心感というのは、この橋固有のものではなく、人間が、自然だろうが人工物だろうがその中に発見してきたものとどこか近いものなのかもしれません。
今まで発見してきた空間を〈そこにあるもの〉としての馬見原橋に発見するのか、あるいは馬見原橋で発見した空間をここ以外の〈そこにあるもの〉の中に発見することになるのかもしれません。


自分の無意識のフタを少し開かれたような気がして、解放感を覚えた一日でした。


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