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スペースノットブランクのワークショップ「身体の経験を交差する」評

・ワークショップの良さは問われなくてはならない

 必ずしも完成を目指さない手探りのもの、作品が立ち上がるプロセスやその偶然性、作品と観客の相互作用を重視し、むしろ未来の可能性に開かれている状態を大切にすること――このような姿勢は今日の芸術全般においてしばしば見受けられます。
 しかし美術批評家のクレア・ビショップは、そのような作品は手放しに誉めることはできないとしています。その理由は次のようなものです。

①失敗している作品と、意図的にワーク・イン・プログレスの状態に置かれているという作品は、ただちに区別することができない
②容易に商品価値の高いレジャーと化してしまう
③その結果、ありがちなものとなってしまう
(「敵対と関係性の美学」より)

これは現代美術についての批評基準ですが、このことは演劇の場合にも妥当すると思われます。私は、こうしたプロセス重視の芸術もまた、なにがしかの「良さ」を追求しなくてはならない、「開放性」という言葉の快い響きにかまけて成功と失敗の区別をも放棄するのではいけない、という風に考えます。

 演劇のワークショップは、この開放性の実践の最たるものです。
 この文章で考えてみたいのは、よいワークショップとは何か、ということです。
 もちろんその内容は千差万別で、専門的な演技の教授の場であることもあれば、人間関係の構築に主眼が置かれていることもあります。作品を完成させ、外部に発表することを目指すのかどうか、それから実施期間の長短によってもその性格は全く変わってくるはずです。ですから演劇のワークショップの全体について、この短い文章でよい悪いを物申すというのは無理な相談です。
 今回論じたいのは、スペースノットブランクが2021年の4月25日に愛知県豊橋市で実施したワークショップ「身体の経験を交差する」のことです。わたしは「保存記録」という役職で現地へ帯同し、現場を見学しています。
 スペースノットブランクは、小野彩加さんと中澤陽さんによる舞台創作のためのコレクティヴです。2021年の6,7月には戯曲家の松原俊太郎さんが書き下ろした『ささやかなさ』の上演を控えています。ワークショップが行われた穂の国とよはし芸術劇場PLATでは2021年度「高校生と創る演劇」の演出を務めることが予定されており、実際今回のワークショップにもその参加を希望している高校生の参加が目立ちました。
 同劇場のウェブサイトには、小野さんと中澤さんによる次のようなコメントが事前に掲載されていました。

わたしたちは「なにもない空間」から舞台を作り出すのが好きです。
だけど舞台に人がいるということは、その人の身体や経験や想像力がそこにあると捉えることもできます。
「ひとりの人間がこのなにもない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる──演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ。」とピーター・ブルックが言うように、わたしたちは特別な物事をどこからか運んでくるのではなく、すでにあるものを「再現」することで舞台を作ることができるのではないかと考えています。

「経験」と言うと、演劇経験、ダンス経験のように技術が伴うように聞こえるかもしれませんが、わたしたちが言う「経験」とは、もっと単純で身近な「思い出」に近いようなもののことですから、「舞台経験」があってもなくても気軽に参加していただけると思います。

今回のワークショップでは、集まる皆様の身体、経験、想像力を少しずつお借りして、いくつかの「再現」を繰り返すことで、わたしたちの舞台がどのように作られていくのかを一緒に体感していただければと思います。何ができあがるのかはわたしたちにもわかりません。もしかしたら何もできないかもしれませんが、それすらも舞台として取り扱うことを目指します。

率直に言うと、演技力や身体能力の向上に直結する内容ではないかもしれませんが、舞台芸術に於ける「空間」の捉え方や、集まる皆様の舞台芸術に対する観念を更新するような新しい発見があるかもしれません。

皆様の参加をお待ちしております。よろしくお願いいたします。

 この文章でまず注目されるのは次のような文言です。

何ができあがるのかはわたしたちにもわかりません。もしかしたら何もできないかもしれませんが、それすらも舞台として取り扱うことを目指します。

これはまさに、必ずしも完成を目指さない開放性の姿勢を示すものです。「何もできないかもしれ」ないワークショップで、彼らは何を目指したのでしょうか。

・ワークショップの内容

 ワークショップへの参加者は17名。先述の通り高校生が半数以上を占めてはいましたが、老若男女を問わず幅広く参加者は集まっていました。スペースノットブランクが彼らに施した演出は至ってシンプルなものでした。
 まず輪を囲むようにして椅子に座り、全員が順々に自己紹介をしていきます。次に、余りの出ないフルーツバスケットのような要領で、座る場所を一斉に取り換えることを何度かします。この時、自分がどの席からどの席に移ったのか、それから席を移動する最中に周囲の人とどのようにすれ違い、どのような歩行を経験したのかを記憶することが参加者には求められていました。これを記憶するために、ある席からある席への同じ移動を彼らは何度も丁寧に繰り返しました。
 最終的に参加者は三つの着席パターンを記憶しますが、これらのパターン間の二種類の移動を身体に覚えさせ終わるまでに、スペースノットブランクはかなりの時間をかけています。
 与えられた三時間のうち、最初の一時間は準備体操と自己紹介、次の一時間をこの席の取り換えに費やしていたのです。丁寧すぎるほどの進行と言えるでしょう。
 そして最後の一時間には、一人ずつ席から席へと移動しながら、最初に話した自己紹介を再び繰り返すよう参加者は求められました。順番について簡単な指示はありましたが、基本的に、舞台はこれで完成です。ずいぶんと手数の少ない演出です。
 そしてわたしは一観客として、出来上がった舞台に満足を覚えました。ここからは、その満足の理由を考えてみたいと思います。

・ワークショップはどう良かったのか

 このワークショップについてまず指摘しなければならないことは、その参加のハードルの低さです。自己紹介の段階で参加者のそぶりに見られた緊張や気負いは、自然と解消して見えました。
 このことが強調されなくてはならないのは、作品の民主性であるとか、平等性とか、そういった社会的な理念にのみよるものではありません。むしろ参加者がリラックスし、その自然体が姿を見せることが重要なのです。
 そして、席から席への移動を一時間程度繰り返すというのは、一見単調で退屈な作業のようです。しかし、その移動の際の周囲との関係性の身体的な経験――相手が邪魔で立ち止まらなければいけなかったり、逆に早足になったり、迂回したり、誰かの近さや遠さを肌で感じたり――を、再現可能なまでに意識することは、大変な注意を求めることになります。そのプロセスは見かけの印象に反して複雑なはずです。この複雑な歩行とその反復を通して、参加者は自分の身体の状態、そして他人と自分の身体が織りなしている状況の全体に、目を向けていくことになるでしょう。
 今回のスペースノットブランクの場合、必ずしも完成を急がないという姿勢は、参加者を落ち着かせ、その個性を素直に引き出していくことに直結していました。たとえば三時間という制約を考えても、自己紹介はいささか長めに行われていましたが、スペースノットブランクは自己紹介を早めに切り上げるよう促すことなく、むしろ一人一人の話を丁寧に聞くことに集中していました。
 それぞれの人びとの身体や言葉の個性、そしてそれが舞台上に撚り集められて織りなす関係性の面白みに、彼らの主眼は向けられています。それは普段のスペースノットブランクのクリエーションの態度をそのままに実践するものです。スペースノットブランクは俳優の稽古場での発話を編集したテキストから舞台を立ち上げることがしばしばです。
 たとえばご老人の参加者に席の交換を求めて会釈をしながら「大学に入ったばかりだけれど、高校生たちをこうして見ていると自分が老いたのを感じる……」と女性が発話するのは、その自己紹介を実際のご老人の前で再現しなければいけない彼女の心境が自然と想像されて、なんだか愉快でした。こんな風にわかりやすいものからそうでないものも含めて、様々な化学反応がその輪のなかでは生じていたはずなのです。
 出演者の発話や身体をそのまま舞台に持ち込むというこの特異な方法は、単一のゴールへと表現を収束させることのない開放的なクリエーションを、むしろ必然的なものとして要請します。そうでなくては、結局舞台は出演者の個性の総合ではなく、演出家の意図の反映にすぎなくなってしまうからです。
 ただし演出家二人のダンス経験を背景とする、普段のスペースノットブランクの舞台に見られる俳優の身体や発話の美学的強度は、ここではむしろ排除されていました。それは三時間という時間の短さにも由来していたでしょうが、そのような消極的な理由からのみこのことを理解すべきではありません。普段のスペースノットブランクの公演とこのワークショップでは、上演の条件自体がまるで異なっているからです。
 それは純粋な観客の有無です。このワークショップで作られた舞台は外部への発表の機会を持っていません。ですから演技をすることなく舞台を見つめるのは、演出の二人と劇場スタッフ、それからごく例外的な立場でそれを外野から見学するわたしだけでした。つまり基本的には、この舞台の観客は観客と同時に演技者でもある、そのような構図がここにはあったのです。内向きに輪を囲むフルーツバスケット状の席配置は、この舞台の相互的な「見る/見られる」という関係性に対応するものです。
 こうなってくると、客席で自分の身体存在を透明化し、俳優の演技の良し悪しを審美的に判断する観客はここにはおらず、誰もが強い仕方でその舞台の生成にコミットすることになります(ある意味でわたしだけは純粋な観客でしたが、それはあくまで別に居る必要のない例外的な存在にすぎません)。舞台の上演に際しては、席を一斉に交換するフェーズと、一人ずつ席を取り換えていくフェーズがありましたが、前者のフェーズでは参加者は歩きながら交差する周りの風景を「観た」ことでしょう。
 このような体験的/相互的側面の強い舞台では、スペースノットブランクの演出によって表現の強度が一律に高められることよりも、むしろそれぞれの参加者の身体や話し方、話す内容の選び方の特性が際立つ方が、かえって興味をそそることになるでしょう。
 実際、スペースノットブランクは歩くペースや仕方についてほとんど演出を行っていません。また付け加えられた演出も、「自己紹介の時に行っていた椅子を引く挙動を再現してみましょう」や「中央で立ち止まって、少し長めに自己紹介してみましょう」といった行動の提案にとどまるもので、その実施方法の細部についてはいわゆる「ダメ出し」を行っていません。

・まとめ

 改めて確認すれば、このような演出の手数の少なさ、参加者の発話内容や挙動から舞台を立ち上げていくその即興的で開放的なクリエーションは、スペースノットブランクの場合けっして立ち上がる舞台のクオリティの放棄につながるどころか、むしろそれを高める方向に向かっていたと言えます。
 もちろん、このワークショップが参加者全員に十分な満足を与えたとは限りません。自己紹介の段階では、時勢もあってか他の参加者と新たな親密な関係を築くことへの期待や、演技力や表現力の刷新への望みも聞かれましたが、それらのニーズがどれだけ叶えられたかは定かでありません。
 ここで、スペースノットブランクが事前に提出していたコメントに立ち返ることにしましょう。

率直に言うと、演技力や身体能力の向上に直結する内容ではないかもしれませんが、舞台芸術に於ける「空間」の捉え方や、集まる皆様の舞台芸術に対する観念を更新するような新しい発見があるかもしれません。


 今回の参加者のおそらく全員に共通する重要な特徴があります。それは、彼らがスペースノットブランクの舞台をこれまでに観たことが無い、ということです。したがって、舞台上で紡がれる言葉や動きをそのまま稽古場で用意していくというクリエーションの独自性や、参加者のふるまいを幅広く許容するその柔軟性を、単に情報として知るばかりでなく実際の創作を通じて生きることは、舞台や創作というものへの彼らの向き合い方に変化を及ぼすには充分であったと思われるのです。

 ここで改めて、開放的な芸術にビショップが加えた批判を確認しましょう。
 まず第一に、成功と失敗の区別の不在。たしかにスペースノットブランクは、必ずしも舞台の成立に固執しません。うまくいかなかったらそれを認めるという態度です。
 しかしそれは、だから舞台の在り方がどのようなものでもいいというような、なんでもありの自堕落な創作態度を意味しているのではありません。むしろスペースノットブランクには、出演者の個性への興味、そしてそれが立ち上げる「空間」を見届けることへの興味に出発し、その強力な動機の方法として開放性を選んでいるところがあります。少なくともその開放性は、開放性のための開放性に終っていません。
 そしてそのように立ちあげられた舞台は、参加者独自の経験に出発するからこそ、常に新しい風景を立ち上げます。その新しさは単にスペースノットブランクの方法論の独自性によるのではなく、むしろ彼らの生とその出会いの唯一性によってこそ確立されてゆくものなのです。



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